三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志コーナー」です。今回は、前回に引き続き、魏の名将・夏候惇(かこうとん)について触れていきます。
誤解がないように先にお伝えしておきますが、私は夏候惇が好きです。魏の武将のなかでは張遼と同じくらい好きです。ただ、張遼よりもツッコミどころが多いのが夏候惇です。
皆さんは、「夏候惇」と聞いて、まず何を連想しますか?「隻眼」と答える方も多いのではないでしょうか。そうです。夏候惇は片目を失っていたのです。
隻眼の将
片目を失った隻眼の将といえば、日本人では「伊達正宗」が有名です。片目に眼帯を当てています。海賊にもいそうな雰囲気ですね。それだけの修羅場を潜り抜けてきた猛者の証にも思えます。ちなみに伊達政宗が隻眼になったのは戦場での負傷ではありません。
子供のころ疱瘡にかかったのが原因です。奇跡的に病気は治りましたが、右目を失いました。コンプレックスは抱えて育ったようですが、立派な大将となり、後世のひとは「独眼竜正宗」と呼んで尊敬しています。
元祖「独眼竜」は後唐の太祖「李克用」のことです。黒塗りの軍装で統一された鴉軍という異名をもつ兵を率いた猛将です。彼もまた病気で片目が見えなかったといいます。隻眼でも強い武将は強いのです。
夏候惇が失った片目はどっち?
李克用よりも元祖隻眼の将といえば、三国志に登場する夏候惇です。彼は生まれたとき既に片目が見えなかったわけでもなく、病で片目を失ったわけでもありません。西暦194年までは両目があったのです。
夏候惇が隻眼になったのは、呂布が兗州で張邈や陳宮とともに反乱を起こしたときです。曹操軍と呂布軍は兗州の地で約4年間戦い続けます。呂布といえば三国志で最強の将です。旗下も張遼や高順など一騎当千の猛者揃いです。
曹操と呂布の戦いは激戦となります。その中で夏候惇は左目を射抜かれるのです。伊達政宗は右目が見えないのですが、夏候惇は左目が見えません。お互いに逆なのです。三国志演義では呂布の配下である曹性に射られたとされています。
夏候惇の脅威のリアクション
曹性の矢は正確に夏候惇の顔に突き刺さりました。「夏候惇、獲ったぞー!!」って思わず曹性は叫んだに違いありません。普通ならこれで倒れ、首を刎ねられるでしょう。運よく味方にかばわれても負傷退場を余儀なくされます。しかし夏候惇は違いました。なんと、矢を自分で抜き放ったのです。
痛すぎです。矢の先には自分の左目が焼き鳥のように突き刺さっていました。まさに地獄絵図です。きっとこの逸話が後世のホラー映画に投影されていくのでしょう。さらに凄いことに、夏候惇は、「親に貰った大事な体の一部を捨てられるか!」と叫んで、その左目を食べてしまうのです。
この異常な気迫に押された曹性は、夏候惇の突き出した槍のえじきとなり死んでしまいます。三国志のなかでも有名な一場面です。これぞ戦場に命を賭ける武将の姿。武将の鑑ですね。日本に星の数ほどいるお笑い芸人たちでも、こんなリアクションは無理です。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
この逸話がフィクションだったとしても、無数に飛び交う矢の中を必死に戦った夏候惇がいたのは事実でしょう。その結果、左目を失ったのも事実ではないでしょうか。負傷してもなお戦い続けようとする夏候惇の闘志がこのような逸話を生んだのだと思います。
きっと夏候惇とは関羽や張飛に負けず劣らぬ闘志の塊だったに違いありません。以後、盲夏候と呼ばれることになりますが、曹操を含めそう呼んでいるものたちは尊敬の念をもって夏候惇に接していただろうと私は思います。みなさんはどうお考えですか。
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