ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・今日のお天気」のコーナーです。
「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という言葉があります。
孟子の教えですね。簡単に言うと、天が与える好機も地の有利さには及ばず、
地の有利さも協力し合う人たちには敵わないというものです。
一番重要なのは組織の結束である。
と、いうことですが、逆に言うと、結束している組織同士の戦いは、
土地を有効活用している方が勝つということです。
もっと言うと、人の和も地の利も互角であれば天の時が戦を左右します。
天の時って要するに偶然でしょ、って言う皆さん、そんなこともありません。
天の時も見えるんです!
今回はこの天の時に注目していきましょう。
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桶狭間の戦い
西暦1560年の日本で、この天の時が明暗を分けた戦いがありました。
「桶狭間の戦い」です。尾張の織田信長VS駿河の今川義元。
圧倒的な大軍を率いる今川軍に対して、織田軍はギリギリまで籠城か城を出て戦うか決めかねています。
決断を伸ばした理由はいろいろあるのでしょうが、
結論から考えると、ゲリラ豪雨の中での奇襲が功を奏しています。
そのおかげで総大将の首を討つことに成功したのです。
織田信長は革新的な言動で有名ですが、実は戦場の地形、天候を巧みに利用しています。
桶狭間の戦いでも、今川義元の本陣がこの場所に陣を布いて休んでいなければ、
奇襲の効果は半減していたことでしょう。
そこに敵が到達するまで織田信長は待ったのです。
はたして織田信長にとってこの突発的な天候の変化は偶然だったのでしょうか。
長篠の戦い
西暦1575年には、織田信長と徳川家康の同盟軍VS武田勝頼の激戦がありました。
世にいう「長篠の戦い」で、教科書にも記載されています。
鉄砲隊を率いる織田勢が騎馬隊主力の武田勢を圧倒するというものです。
一番有名なのは織田勢の鉄砲隊の三段構えですが、それ以上に注目すべきは地形と天候です。
織田信長はこの時もギリギリまで援軍出撃を延ばしています。
織田信長は何を待っていたのでしょうか。
一つはこの長篠の地形に敵本陣を誘い出すことです。
田んぼが多い平地ですが、実はかなりの湿地帯です。
多雨の時期は舟を出すほどだったそうです。
一年を考えてみると騎馬隊に有利な地形ですが、
ある一時期だけはぬかるみがひどく騎馬隊に不利になります。
織田信長が待っていたもう一つは天候です。意外ですが多雨の日を狙っています。
当然のように火種が必要な鉄砲隊に不利な天候でもありますが、
この地形では騎馬隊はそれ以上に不利なのです。
織田信長は天候の情報を読み解き、それを実戦に応用していたといえます。
誰を参考にしたのでしょうか。
三国志での天候の活用
前置きが長くなりましたが、それではその1300年前の三国志の時代ではどうだったのでしょうか。
天候を味方につけようと考えた武将はいるのでしょうか。
いますよー!!
西暦208年、孫権と劉備の同盟軍VS曹操の大激突のときです。世にいう「赤壁の戦い」ですね。
このとき大軍で圧倒する曹操勢に対して孫権は火攻めを敢行します。
長江の北に陣を構える曹操。こちらは風上です。長江の南に陣を構える孫権。
こちらが風下。これでは効果的な火攻めはできません。
強行すれば味方に損害を与えかねません。旧暦の11月には基本的に東南の風は吹かないはずなのです。
曹操もそこは押さえていました。
しかし周瑜はこの地方では冬至のあと、ある時期にだけ東南の風が吹くことを知っていたのです。
こうして曹操軍は壊滅状態のダメージを受けます。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
司馬懿も諸葛亮孔明に火攻めされたとき突然の豪雨で命を救われています。
もしかすると司馬懿も天候を読むことに長けていたのかもしれませんね。
三国志演義では、赤壁の戦いの時の東南の風は諸葛亮孔明の祈祷のおかげとなっています。
それではちょっと面白みがないですね。
天候の情報も戦況を変える決め手になる。
織田信長は周瑜からそれを学んだのかもしれません。
皆さんはどうお考えですか。
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