孫権は名君?それとも暴君だったの?5分で分かる君主の評価


孫権と三国アヒル

 

三国志の君主の一人である孫権(そんけん)。彼の父親は孫堅(そんけん)といい黄巾討伐戦や董卓討伐戦で大活躍した武将で、名将といっても過言でない働きを示します。孫堅の長男で小覇王と言われた孫策も名将であったと考えられます。さて孫堅の次男であり孫策死後彼の跡をついで孫家の当主として君臨することになる孫権。彼は青年期から名君足り得る人物としての噂が立っておりましたが、果たして本当だったのか。しかし晩年気になると家臣を粛清したり、訳の分からん事を行ったせいで、国力低下を招くことになります。果たして彼は一体名君であったのか。それとも暴君であったのか。一体どっちであったのでしょうか。


孫堅・孫策の証言

孫堅の妻

 

孫家の初代当主である孫堅は孫権の幼少期の顔つきを見ると大いに喜んだそうです。その理由は孫権が「この人相は貴い人物に出世するに違いない」と断定。この孫堅の予想は大いにあたり確かに孫権は大出世することになります。また孫策はなくなる前に孫権を近くに呼んで「お前は俺と比べると兵士を率いて戦をさせれば、間違えなく俺のほうが優秀であろう。しかしお前は人心を休んじる政治を行う点では俺は勝てない」と残しております。この孫策の遺言を見ると彼は戦ではあまり能力を発揮することができない人物であるが、政治に関しては孫権は優秀な人物であると行っておりました。果たして本当でしょうか。


陳寿の評価

陳寿

 

正史「三国志」の作者である陳寿(ちんじゅ)は彼をどのように評価しているのでしょうか。陳寿は「恥を忍び、人の才能を見つけることに長け、国の経略を貴んだ人物。越王勾践(こうせん)に似ており、まさに人傑と呼ぶにふさわしい活躍をした」と評価しています。かなり高い評価を彼に下していたのですが、実際はどうだったのでしょうか。

 

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孫策の遺言は正しかった

孫策

 

孫権は孫策が遺言したとおりの人物でした。彼は両国である揚州一体を守るために孫策の死後すぐに人材集めをします。そして彼の元へ集まった人材は諸葛瑾(しょかつきん)陸遜(りくそん)を筆頭に集まった文官達や甘寧(かんねい)朱然(しゅぜん)などの武将を集めてることに成功。この人材達を適材適所に配置して行くことで、中華最大の勢力となっている曹操から国土防衛を行っていくことになります。戦はあまり上手くなかったが国の経営や防衛に関しては類を見ない名君であったと考えられます。


危機的状況に陥ったら父を殺した勢力と手を結ぼうと考える

呂壱と孫権

 

陳寿の評価も孫権にぴったりとあてはまっていると考えます。彼は自らが領有している国が有利であれば信義を考えずにコロコロと同盟先を変えております。河北を統一して中華最強の戦力となった曹操が南下してきます。孫権は単独で曹操軍と対決することになれば、勝てない事が分かっておりました。その為父孫堅を殺害した仇敵である荊州の劉氏一族と同盟して曹操軍と対決しようと考えます。そこで彼は魯粛を劉表の見舞いと称して、荊州(けいしゅう)が曹操軍に対してどのように対応するのか見極めてこいと命じます。しかし魯粛が荊州へ向かっている途中に荊州は曹操軍に降伏しておりました。その後は荊州から逃れていきた劉備と同盟を結んで曹操軍と対決して勝利。こうして最大の危機を逃れる事ができた孫権ですが、後に荊州の領有について劉備といざこざがおきます。この問題は解決しないまま関羽率いる蜀軍が北荊州にいる曹操軍を討伐するため北伐を開始。孫権は関羽が戦況を有利に進めているとの報告を受けると、関羽が荊州で魏軍に完全勝利してしまうと、荊州は蜀の物になってしまい自らの国に編入することができなくなると判断します。そして孫権は驚くべき行動を取ることになるのです。

 

敵である魏と同盟を結ぶ

張昭 VS 孫権

 

孫権は荊州を自国に組み込むために敵として幾度も戦っていた魏と同盟を結びます。この結果、関羽は敗北することになり、蜀は荊州を失ってしまうことになります。そして新たな荊州の主となったのは魏と同盟を結んだ孫権でした。孫権は劉備が関羽を殺したことを知って報復せんを仕掛けてきた時には、魏へ降伏して臣下の礼を取っています。こうして両面から攻撃を受ける事を逃れた孫権は見事劉備軍を撃破して、勝利をおさめます。しかし魏から攻撃を受けそうな戦況に陥ると彼は蜀と同盟を再度結んで魏に対応しております。節操のない人物だと思われるかもしれませんが中華が乱世で、いつ自国が敵に滅ぼされるかわからない状況であったことを考えると彼の取った自国を保全するための行動は、正しい行動であったと思います。自国を守るために恥を忍んで経略を貴んだ陳寿の評価が、そのまま当てはまるのではないのでしょうか。

 

青年期から晩年になる前までは間違えなく名君であった

孫権

 

孫権は孫家を継いだ当初~晩年期に入る前まではまさしく陳寿らが評価したとおりの人物で、名君といっても差し支えないでしょう。また晩年期に入る前と言うのは、彼が首都を武昌(ぶしょう)から建業へ移した時までの事を指しています。この首都移転後から彼は少しずつ狂っていくことになります。

 

晩年期の孫権はまさしく暴君

孫権

 

首都移転から孫権の晩年期が始ったと勝手に決めます。建業に首都を移した翌年暴君としての片鱗を彼は見せ始めていきます。

 

暴君の兆しその1:ヒューマンハンティングを行う

孫権日本

 

孫権は首都を建業に移した翌年に何をトチ狂ったのかヒューマンハンティングを行います。彼は海を隔てた島に始皇帝が派遣した徐福(じょふく)の子孫達がいるとの情報が、もたらされることに。この情報を信じた孫権は諸葛直(しょかつちょく)や衛温(えいおん)に大船と一万人の兵士を授け、派遣することにします。しかし結果は大失敗に終わってしまいます。彼等は一万の軍勢を授けられて、大船と共に出発していくのですが、徐福らが住んでいると言われる島に行き着くことができませんでしたが、途中で小さい島を発見して数千人を奪います。この小さい島にたどり着くまでに船内で疫病が発生し、授けられた兵力の内半数以上が亡くなってしまいます。この大失敗の戦果を聞いた孫権は大いに激怒して、帰ってきた将軍ふたりを処刑してしまいます。なぜこのような事を行ったのでしょうか。

 

呉の国土に人がいなかったから

陸遜 兵士

 

呉の国土は蜀よりも広い領土を有しておりました。しかし国土の大きさの割には国内にあまり人がおりませんでした。また孫呉の領土には多くの異民族が反乱を起こして孫呉に楯突いていたこともあり、異民族討伐に兵士を向けなくてはならない状況が続いておりました。その為、魏の領土と境を接する地点では大軍を駐屯させている事が難しい状況でした。そこで孫権は国内において兵力と住民の数を増やすのではなく海外に出て、人をさらってくればいいんじゃねーかと閃きます。その結果がヒューマンハンティングへとつながることになるのですが、大失敗に終わってしまいます。

 

暴君の兆しその2:部下の意見を取り入れなくなる

公孫淵

 

孫権は遼東の地に割拠している群雄・公孫淵(こうそんえん)が降伏したいと申し込んできました。この申し入れに喜んだ孫権は彼の降伏を受け入れるために使者を派遣します。しかしこの使者派遣について張昭(ちょうしょう)をはじめとする文官たちは「公孫淵は魏から討伐をうけそうになっているから一時的に降伏したいと言っているに過ぎない。魏が公孫淵の討伐を取りやめればすぐに魏へ味方することになるでありましょう。そしたら派遣した家臣は戻ってこなくなり、天下に『孫家はバカなことをしていると』と大笑いされるに違いありません。」と反対意見を述べますが、孫権は彼らの反対意見を入れずに使者を派遣します。その結果、公孫淵は魏に再び味方することになり、孫権が派遣した使者を殺して魏へ送り、呉の使者がもっていた贈り物は全て公孫淵の懐に入ってしまいます。張昭らが反対したとおりの事が起こってしまうのでした。孫権が狂ってきている事がお分かりになってきたと思います。

 

暗君と言われる原因となったのは・・・・

孫権

 

孫権はこれまで暴君の兆しを見せておりましたが、完全なる暴君になることはありませんでした。しかし老齢になってから自らの息子ができたことで完全に暴君へと変化してしまいます。彼が完全に暴君となってしまったのは後継者問題が原因です。

 

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暗君孫権の愚かな政策その1:後継者問題を決定しない

魯粛の生涯06 魯粛、孫権、張昭

 

孫権は自らの後継者を決めることをしませんでした。その原因は色々とありますが、ざっくり説明すると老齢の時に産んだ子供が可愛くその子に自らの後継者となってもらいたいから後継者を決めなかったのではないかと推測。また長男が亡くなっていたことも原因の一つであろうと考えております。どぢらにしても孫権は後継者を三男孫和(そんか)に決定します。しかし孫権は四男である孫覇(そんは)を可愛がっていたことから、彼を皇太子孫和に匹敵する待遇を施します。その為皇太子派と孫覇派に派閥ができてしまい、家臣達も両方に分かれて争うことになります。

 

暗君孫権の愚かな政策その2:後継者争いがきっかけで名将を死なせることに・・・

陸遜

 

孫呉の名将であった陸遜(りくそん)は首都・建業にいることなく、魏との国境地点に近い地点に駐屯しておりました。そして孫呉の家臣達が皇太子派と孫覇派に分裂して、権力闘争になっている状態を憂いておりました。そこで彼は孫権に「皇太子を後継者に決定すればこのおろかな争いを鎮めることが、できるのではないのでしょうか。」と進言。孫権はこの書状を呼んで不機嫌になってしまい返信を陸遜に送りませんでした。また孫覇派の家臣が陸遜が孫権に諫言を行ったことを知って、孫権に陸遜の讒言を行います。この讒言を聞いた孫権は大いに怒り、陸遜に対して詰問の使者を派遣。陸遜は身に覚えのない事で詰問を受けたことで孫権に対して怒りを覚え、そのまま憤死してしまいます。

 

暗君孫権の愚かな政策その3:後継者問題は決着を着くが・・・

そんろは 孫魯班

 

孫権はその後も激しく皇太子派と孫覇派に分かれて権力闘争を続けている家臣達を煩わしく思い、皇太子を後継者の座から引きずり下ろし、孫覇を処断することで喧嘩両成敗としてこの問題を解決します。そして孫権が一番可愛がっていた孫亮(そんりょう)を後継者とすることに決めます。こうして後継者問題は解決することになるのですが、呉の国力は大いに低下することになり、この後継者問題が原因で孫呉滅亡の引き金となったのではないかと思えるほど、危機的な状況に陥ることになります。

 

晩年期の孫権はまさに暴君と暗君が混同して住んでいた君主

藏覇と孫権

 

孫権の晩年期に差し掛かる前までは、家臣の意見を聞かずに自分の思うどおりにやっていた暴君と言っても過言ではないのでしょうか。そして完全に晩年を迎えることになった孫権はまさに暗君として君臨していたと言ってもいいでしょう。彼は袁紹の後継者問題と劉表の後継者問題を知っていたにも関わらず、二宮の変を起こして国力低下の原因を作ってしまいます。あの時孫登が生きていれば後継者問題は起きずに住んでいたのではないのでしょうか。また孫権が皇太子をそのままにして孫覇の地位を皇太子と同等にしなければ、陸遜がなくなることもなく、呉の国力低下を招くこともなかったでしょう。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

孫権は青年期は非常に優秀な人物で陳寿や孫策が評価したとおり、名君であり、人傑と言っても過言ではないでしょう。しかし晩年期に入ると暴君となり、後継者問題に発展したときは暗愚な君主になってしまいます。一体孫権に何があったのでしょうか。これはまだ解明されていない部分であるので、今後の発掘調査や三国時代の書物の解明に期待が寄せられることでしょう。孫権はまさしく名君でありながら暴君・暗君として名を歴史に刻んでしまった残念な君主でした。

 

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