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長宗我部元親が取った豊臣軍迎撃作戦が成功していたら秀吉はやばかった

2017年7月5日


 

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センゴク(1) (ヤングマガジンコミックス)

 

マンガ・センゴク権兵衛。

仙石権兵衛秀久(せんごくごんべえひでひさ)を主人公として、

織田信長、羽柴秀吉などの群雄や織田家・徳川家の武将、

信長に敵対していた武将・大名達を描いている日本の戦国史・マンガです。

作者の宮下氏は非常に綿密に時代考証や戦場考察をしており、

私たちが今まで歴史の教科書でしか知らなかった歴史上の出来事に対して、

この漫画ではつねに新しい発見をセンゴク権兵衛に織り込んで描いており、

歴史を知っている方でも十分に楽しむことができるマンガとなっております。

さて今回はこのマンガ・センゴク権兵衛から四国征伐の内容をお送りしたいと思います。

史実では長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)率いる四国勢4万に対して、

秀吉は14万もの大軍で多方面から一斉に四国へ攻め入り、

圧倒的兵力差を見せつけて長宗我部元親を降伏させております。

秀吉は簡単に長宗我部元親を降伏させたように記されているこの戦いですが、

センゴク権兵衛では長宗我部元親が、

必殺の秘策を用意して秀吉軍を待ち構えておりました。

 

センゴクを100倍楽しむ全記事一覧はこちら

関連記事:長宗我部元親「四国の蝙蝠(こうもり)」の四国統一戦を分かりやすく紹介!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長宗我部元親必殺の秘策とは

長曾我部元親(長宗我部元親)鳥なき島のコウモリ

 

長宗我部元親は秀吉軍が軍勢を揃えて四国へ渡航してくると

諸将を羽柴軍迎撃の本営としている白地(はくち)城へ集合させ、

諸将を集めると秀吉軍迎撃作戦を諸将へ説明します。

元親は諸将へ「秀吉・毛利軍を各個撃破することだ。

そのためにはまず第一に各武将達が各々の砦で堰となって敵軍を止めることが必要。

そして白地城に駐屯している我が軍が全軍で出陣して、

砦攻略に手間取っている敵軍を急襲して個別に撃破していく。

そのため諸将が危機的状況に陥っていても私は助けに行くことができない。

なぜならば救援しに行けば、

敵軍の思うツボで兵力で優位に立つ敵軍に撃破されるからだ。

そのことは覚悟しておいてくれ。」と作戦内容を明かします。

こうして元親の作戦に同意した諸将は守備を任されている砦に散っていきます。

そして羽柴軍は大軍で長宗我部軍が守っている砦に攻撃を仕掛けてくるのです。

 

餌にかかった別働隊

 

仙石権兵衛秀久は宇喜多秀家(うきたひでいえ)の別働隊に属して四国の屋島に上陸。

ここから秀家率いる別働隊は長宗我部軍・200人が守っている喜岡城へ攻撃。

攻撃軍は仙石権兵衛と四国で長宗我部軍と激闘を繰り広げていた

三好三郎(みよしさぶろう=十河存保(そごうまさやす)です。

彼らは一気に敵軍に攻め入って簡単に長宗我部軍が守っていた喜岡城を陥落させます。

こうして初戦をモノにした宇喜多別働隊は次なる目標である植田城へ向けて、

軍勢を進めていくことに。

植田城の途上にあった池田・由良城にいた長宗我部軍は、

宇喜多別働隊が大軍であったため、城を放棄して撤退していく有様でした。

しかしこれは元親が巻いた餌でした。

ここから元親の作戦が展開していくことになります。

 

植田城主・戸波親武、秀吉軍に降伏する意思を示す

 

植田城主であった戸波親武(へわちかたけ)は宇喜多別働隊に降伏を願い出ます。

彼は交渉に当たった黒田官兵衛(くろだかんべえ)・蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)へ

「これから城を開城して降伏するつもりだが、部下達を納得させなくてはならない。

そのため三日ほど時間をくれないか」と提案。

ふたりは彼の提案に対して「無理だ。一日で何とかしてくれないか」と再提案します。

親武は彼らの申し出を承諾しますが、

部下達を降伏する為にもう一つ官兵衛と正勝に提案を行います。

それは植田城を大軍で囲んで欲しいとのことでした。

親武曰く「降伏する際、秀吉軍に大軍で植田城が包囲されれば、

秀吉軍に抵抗するのがどれだけ難しいか部下達が理解でき、

秀吉軍に降伏することを簡単に説得できるから」だそうです。

官兵衛と正勝は彼の申し出を了承し宇喜多別働隊は植田城を包囲。

親武は部下の説得を行い植田城を開城して秀吉軍へ降伏するために行動を開始します。

だがこれは元親が描いていた策略でした。

 

元親の策略とは

 

元親は植田城に敵軍を足止めすることによって、

白地城にいる長宗我部本隊を進軍させ、

植田城と長宗我部軍の本隊とで挟撃することで羽柴軍を撃破しようと考えておりました。

しかしある人物のせいでこの策略は看破されることになってしまいます。

 

元親の作戦を見破った官兵衛

 

親武は降伏を嫌がる部下を説得する為「もう少し日にちに猶予を頂きたい」と

申し込んできます。

官兵衛と正勝は彼の言葉に不信感を抱きつつ本営に帰って軍議を行います。

この時、官兵衛はあることに気づくのです。

それはこの植田城の降伏が元親の策略であり、

植田城と長宗我部軍が協力して宇喜多別働隊を撃破しようと考えているのではないか、

ということです。

この元親の策略に気づいた官兵衛は宇喜多秀家へ「別働隊と合流することで、

長宗我部軍から挟撃を受ける事を避けることができます。

しかしここで敵前逃亡すれば、別働隊の下風に立つことになり、

出世することができなくなってしまいますがよろしいですか。」と尋ねます。

すると秀家は「出世よりも四国征伐を成功させるほうが大事です。

すぐに撤退しましょう」と官兵衛の提案を受け入れることに。

こうして宇喜多別働隊は植田城から撤退し秀長率いる秀吉軍に合流することになるのです。

元親は植田城の軍勢と協力して敵軍を撃破するつもりでしたが、

戦場に到着すると敵軍はいなくなっており、

彼の作戦は失敗に終わってしまうのでした。

しかし彼にはもう一つの秘策がありました。

 

阿波の要所・木津城降伏

 

宇喜多別働隊は秀長率いる羽柴軍本隊と合流すると木津城へ攻撃をかけます。

木津城攻撃軍は羽柴秀長・宇喜多秀家・黒田官兵衛・蜂須賀正勝・仙石権兵衛など、

秀吉軍のオールスターとも言うべき豪華な布陣で木津城へ攻撃を行うのでした。

城主・東条関兵衛(とうじょうせきべえ)以下精一杯秀吉軍へ抵抗しますが、

秀吉軍のオールスター攻撃軍に勝つことができないことが分かり降伏することに。

城主・東条関兵衛は豊臣秀吉軍の本隊に降伏すると

次なる豊臣軍の作戦である土佐・海部(かいべ)へ侵攻する為、

道案内を命じられることになります。

だがこの海部侵攻作戦へ豊臣軍を向かわせようとするのも長宗我部元親の作戦でした。

 

元親の秘策第二も見破る

 

官兵衛は権兵衛から海部が長宗我部家の経済において、

重要拠点であることを知ると諸将へ「この作戦は元親が描いた作戦ではないでしょうか。

長宗我部家にとって経済の基盤となっている海部を放置しているとは思えません。

もし我らが海部へ侵攻すれば、元親軍が待ち受けている可能性があります。」と進言。

この官兵衛の推測を聞いた羽柴秀長(はしばひでなが)はすぐに諸将に作戦中止を伝え、

白地城周辺の城を陥落させて元親にプレッシャーをかけていく作戦に変更。

こうして元親が考えた二段階の秘策は全て官兵衛によって看破されてしまうのでした。

 

重臣達の説得により降伏

 

谷忠兵衛(たにちゅうべえ)は一宮城で豊臣軍に敵対しておりました。

官兵衛と正勝は忠兵衛へ「元親を豊臣家へ降伏するように促してきてほしい」と説得。

忠兵衛は長宗我部家の未来のため彼らの要請を受け、

元親説得のため白地城へ向かいます。

忠兵衛は白地城で重臣達や元親に豊臣へ降るように説得。

はじめは反対していた長宗我部元親ですが、

彼らの意見に従って豊臣へ降伏することを決意します。

こうして四国征伐は豊臣軍の勝利で終焉することになります。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

今回はマンガ・センゴク権兵衛において描かれている四国征伐についてご紹介しました。

史実では多方面同時攻撃に対しての手当ができなくて、

元親は豊臣軍に敗北しております。

しかしセンゴク権兵衛では元親は豊臣軍に勝つつもりであり、

そのための作戦もしっかりと立てており、

官兵衛がいなければ元親の作戦は成功した可能性が高いと思われます。

実際に史実でもこのような作戦を長宗我部元親は立てており、

その証左として「南海治乱記(なんかいちらんき)」という書物を引き合いに出しており、

原文は「今度讃岐表の戦を仕はづしたるこそ残り多きに海部の戦を仕外べからず

元親ほどの者がこの大敵受け一戦もせずおめおめと降参すべきか」と

元親が苦悩している姿を現している一文があります。

ここで海部での戦が仕外(しはず)すとあり、

元親が海部で羽柴軍と一合戦行おうと考えていたと

読むことが出来るのではないのでしょうか。

さらにこの作戦が発動されていれば、

秀長率いる豊臣軍は元親に勝つことができたとしても、

甚大なダメージを負っていたに違いないでしょう。

豊臣軍に甚大なダメージを負わせることができた元親は、

最終的に降伏することになっても、

もう少しいい条件で降伏することができたかもしれません。

このように考えると豊臣秀吉の四国征伐が、

簡単ではなかったと言えるのではないのでしょうか。

しかし実情は作戦を読み切られてしまった元親には豊臣家に従属するしか道はなく、

元親も随分悩んで豊臣秀吉に降伏する決断をします。

こうして秀吉の四国征伐は現地の参謀・黒田官兵衛が元親の作戦を看破したことによって、

なんとか無事に成功するのです。

 

参考文献 講談社 センゴク権兵衛 宮下英樹著

 

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