今夏司馬遼太郎が描いた歴史小説「関ヶ原」を原作として、
劇場で「関ヶ原」が放映されることになりました。
そこで今回は関ヶ原の戦いをより深く知ることで100倍映画・関ヶ原を楽しむ為、
関ヶ原の戦いがどのようにして起きたのかをご紹介したいと思います。
関ヶ原の戦いには二人の女性の派閥が関係してくるのですが、
この二人が関ヶ原の戦いに大きく関係してくることになるのです。
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この記事の目次
関ヶ原の戦いに関係した二人の女性をご紹介
関ヶ原の戦いがどのようにして起きることになったのかをご紹介する前に
関ヶ原の戦いに関与した二人の女性をご紹介したいと思います。
まず一人目は豊臣秀吉となって天下統一する前から、
秀吉の艱難辛苦を支えて続けてきた「寧々(おねね)」です。
そして二人目は豊臣秀吉が天下統一された後、
側室として秀吉の元へやってきた「淀(よど)殿」。
寧々と淀は豊臣政権ではどのような立場に立っていた人物なのでしょうか。
寧々は豊臣政権で秀吉を支えた実力者
寧々と淀殿の二人についてご紹介していきたいと思います。
まずは戦国無双などのゲームで有名になった寧々です。
寧々は秀吉がまだ織田家の一部将として
出世する前から秀吉を支えてきた「糟糠の妻」と言える存在です。
そのため秀吉が関白となり豊臣の姓を朝廷からもらった後、
寧々も「吉子」の名前を朝廷から下賜されると共に従一位の位を貰うことになります。
まさに名実ともに天下一の奥さんとして豊臣政権で君臨することになります。
寧々は秀吉が天下を統一するために各地へ遠征するために京都を離れている時には、
朝廷と交流を深めて関与していきます。
秀吉は天下統一後諸大名の妻子を人質として大阪城へ住まわせる政策を実施。
この時豊臣秀吉は寧々に重大な任務を与えることにします。
寧々が秀吉から与えられた重大な任務とは一体何なのでしょうか。
諸大名の反感を中和する役割を果たす
秀吉は諸大名から妻子を人質に取る政策を実行すると
寧々に人質となって大阪へやって来た妻子達の面倒を見る役目を任せることにします。
この結果、大阪城にやってきた諸大名の人質達は堅苦しい生活を強いられることなく、
安全で伸び伸びと生活を送ることができました。
諸大名は寧々のおかげで妻子が大阪で窮屈な生活を送ることなく、
伸び伸びと生活していることを知って秀吉が諸大名から反感される事なく人質政策が
受け入れられることになります。
また諸大名の妻子達が窮屈な生活を送ることがないのは寧々の面倒見のよさである事を知った
諸大名から絶大な人気を得ることになります。
更に寧々には羽柴秀吉時代から小姓として育てて来た武将達や
養子として豊臣家に入ってきた子供達を育てる仕事がありました。
寧々に育てられて感謝している武将は多く、一例を上げると福島正則(ふくしままさのり)、
加藤清正(かとうきよまさ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)などがいます。
寧々に育てられた武将達は秀吉死後に寧々の元を訪れて、
不自由がないか世話を焼いていたそうです。
このように多くの武将達が寧々の元に集まって来る事になるのです。
対して淀殿は豊臣政権でどのような立場に立っていたのでしょうか。
豊臣政権の後継者を生んで政権内での地位が急上昇!?
寧々は豊臣政権内で諸大名から信頼を寄せられ、
夫でありながら天下人として君臨していた秀吉からも頼りにされていた女性でした。
さて対する淀殿はどのような女性だったのでしょうか。
淀は秀吉の側室として向かい入れられた後子供を生むことになります。
しかも二人です。
秀吉は長年寧々との間に子供ができなくて悩んでおり、
多くの側室を迎えては子作りに励んでいましたが子供を儲けることができませんでした。
だが淀を側室に向かい入れて子作りに励むと早速一人目を授かることになり、
無事出産を果たすことになります。
淀が生んだ最初の子供の名前は鶴松(つるまつ)です。
しかし鶴松は生後三年程で亡くなってしまうのでした。
だが淀は再び豊臣秀吉の子供を儲けることになります。
次の子供の名前は拾(ひろい)と名付けられ、
この拾が成長して豊臣家最後の君主となる豊臣秀頼(とよとみひでより)となるのです。
こうして拾を生んだ淀は豊臣政権内では強固な地位を築くことに成功し、
豊臣政権内で一気に大きな勢力を築くことになります。
淀は近江(おうみ)の大名・浅井長政(あざいながまさ)の娘であることから、
近江出身の武将達が多く集まってくることになります。
淀の元に集まってきた武将達の一例として、
石田三成(いしだみつなり)、増田長盛(ましたながもり)、
長束正家(なつかまさいえ)などの官僚達でした。
こうして寧々の次位に次ぐ権力を得ることになった淀殿。
しかしなぜ二人は敵対することになったのでしょうか。
寧々と淀殿は敵対する意思がなかった
寧々が豊臣政権内での女性の中で一番の地位を手に入れ、
多くの大名や武将達が彼女のまわりに集まってきます。
しかし淀殿も秀吉の後継を産んだことから寧々に次ぐ地位を手に入れることになり、
淀殿の周りにも近江出身の官僚達が集まってくることになります。
だが寧々と淀殿は対立することを望んでいたのでしょうか。
寧々は秀吉の政治アドバイザーとして政治にも関わっていたことがあり、
淀殿と対立することで豊臣家が分裂して二つに割る可能性を考慮に入れていたはずです。
にも関わらず積極的に淀殿と敵対するような行動をした可能性は限りなく低いでしょう。
その証左としてある書状があります。
家康に味方していた黒田長政(くろだながまさ)と浅野幸長(あさのゆきなが)が、
小早川秀秋へ出した書状が挙げられます。
長政と幸長は秀秋へ「家康が2,3日以内にやってくるからこちらに寝返る準備をしていて欲しい」と
家康に味方するよう促す書状を送っております。
この書状の中で長政と幸長は寧々の名前をちらつかせて寝返りを催促しているのですが、
当時寧々は秀吉が建立した高台院で秀吉を弔っており、
積極的に東軍へ味方して秀秋が寝返るように働きかけてはいないのです。
もちろん西軍にも味方しているわけではなく、
あくまでも中立な立場でこの戦を見守っている状態でした。
レンはこのことから寧々が大阪を住処にしている淀殿と敵対する意思を持っていないと
考えています。
もう一つ付け加えると淀殿も寧々に敵対するような行動を取っていないと言えるでしょう。
その理由としては淀殿が西軍へ積極的に政治的な行動をしているわけではないからです。
そのため二人の女性は東軍と西軍に積極的に協力することはなく、
敵対するような行動を取っていないと言え、
関ヶ原の戦いの根本的な原因となっているのは、
寧々と淀殿の周りに集まった武将達の派閥であるとレンは考えております。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は関ヶ原の戦い…実は寧々と淀の争いが原因だった!?についてご紹介しました。
結果的には寧々も淀殿も敵対するような行動を起こしていないと言うことになりました。
しかし西軍も東軍も「北政所(寧々)」の名前を勝手に使って、
西軍から東軍へ寝返りするように催促。
西軍は東軍の総大将徳川家康の罪状を掲げた際、
「北政所」の名前を勝手に使っていたそうです。
「北政所(寧々)」の名前が関ヶ原の戦いが起きる前の段階では、
かなり影響力のある名前であることが言えるのではないのでしょうか。
そのため、両軍は無断で「北政所」の名前を使用していたと考えることが出来るでしょう。
ここからはレンの予想になりますが、
無断で北政所の名前を両軍が使用したせいで、
寧々が大阪城に居座っている淀殿に敵対していると勘違いし、
寧々vs淀殿の対立構造が出来上がってしまったのではないのかと考えております。
寧々の関ヶ原の前の行動については、
司馬遼太郎の関ヶ原に記載されているので、
この点を知っているとより深く映画・関ヶ原を見ることが出来るのではないのでしょうか。
参考文献 新潮社 関ヶ原 司馬遼太郎著など
(写真引用元:関ヶ原公式サイト)
映画「関ヶ原」の予告ダイジェスト