後漢王朝は曹丕(そうひ)へ帝の位を譲って滅亡しますが、
後漢王朝の王族の一人が曹魏へ仕えていたことをご存知でしたでしょうか。
後漢王朝の王族の名を劉曄(りゅうよう)と言います。
彼は若い頃から決断力と行動力、そして知力を備えていた優れた人物でしたが、
若い頃はどのような人物だったのでしょうか。
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母の遺言
劉曄は劉備のように怪しげな後漢王朝の末裔ではなく血統書つきの王族でした。
彼の先祖は光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の息子の末裔です。
彼は幼い頃に母親を病で失ってしまいます。
劉曄の母は亡くなる間際、劉曄と彼の兄へ「父上の側近はとっても悪い奴です。
その側近が居なくなれば私はあの世でも満足して生きていけるでしょう。
どうか貴方達が大きくなったら父上の側近をやっつけてくれ」と彼らに遺言を残します。
父の側近を殺害
劉曄は13歳になると兄へ「母上の遺言を実行しよう」と相談します。
しかし兄は「そんなことが出来るわけないではないか」と
言って母の遺言を守ろうとしませんでした。
だが劉曄は側近の居る部屋へ入ると剣を突き立てて殺害してしまいます。
その後父にこっぴどくしかられますが劉曄は平然と
「私は母上の遺言を守っただけです」と言ってのけます。
劉曄の言葉を聞いた父は彼に見所を感じて許すことにします。
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賊の大将を討ち取って劉勲へ差し出す
劉曄は淮南(わいなん)に蔓延っていた賊徒が王族である自分を大将に擁立しようと
企んでいることを知ります。
しかし劉曄は彼らに担がれるのを嫌がっておりました。
そんな中、曹操の使者が江東の実態調査をするためにやってきたことを幸いに、
賊徒の大将をぶった斬って賊徒達へ
「曹操様の指令である。軍勢はすぐそこまで来ているから大人しく降伏せよ。
もし歯向かう者がいるのであればこの場で全て切り捨てるぞ」と凄みを聞かせた声で、
賊徒を脅します。
この結果賊徒達は全て劉曄に降伏することになり、
いきなり数千の兵力を手にすることになります。
だが劉曄は彼らの上に立ちたいと思っていなかったので、
盧江(ろこう)太守である劉勲(りゅうくん)に全てあずけてしまいます。
孫策の企みを看破する
劉勲の勢力は劉曄が降伏させた賊徒を吸収したことによって、
江東の孫策を脅かすほどの大勢力として成長することになります。。
孫策は廬江の劉勲の存在が目障りであったため、
彼に色々な贈り物を送って信用を得ると一つのお願いをしてきます。
孫策は劉勲へ「お願いがあります。上繚(じょうりょう)の土地に異民族がいるのですが、
奴ら俺たちの事を馬鹿にしてくるんですよ。
そこで大勢力である劉勲殿に上繚を攻略していただけないでしょうか。
あの土地は豊かで国力増大には必要不可欠な場所でしょう。
もちろん私たちも手伝わせていただきます。」と要請。
劉勲は部下達にもこの孫策の手紙を見せて賛同を得ると出陣の準備を行います。
しかし劉曄だけが反対意見を彼に述べます。
劉曄は彼へ「上繚の城は非常に堅牢でちょっとやそっとの攻撃では、
陥落することはできないでしょう。
もし上繚攻略に手こずってしまっている間に廬江へ孫策軍がやってきたら、
防ぎ切ることできずに孫策にパクられてしまうでしょう。
そうしたらあなた様は一体どこへ帰るのですか。」と反対。
しかし劉勲は劉曄の意見を聞かないで上繚へ攻撃を開始。
すると劉曄の予想通り孫策軍は守備兵の居なくなった廬江を占拠してしまいます。
劉曄は孫策軍がやってくる前に寿春へ逃亡していたため、
孫策軍に捕まることはありませんでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
後漢王朝の王族の中で劉曄は傑出した才能を持っていたと言えるのではないのでしょうか。
同じ王族で幽州(ゆうしゅう)にいた劉虞(りゅうぐ)は、
時勢を読むことができずに公孫瓉に攻め込まれて捕虜となって斬られてしまいます。
彼に比べれば何倍も劉曄が優れた人物であると思ってしまうのはレンだけでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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