王粲(おうさん)とはどんな人?建安の七子であるが容貌の貧弱さでは龐統や張松より上

2017年7月19日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・人事部」のコーナーです。

 

 

中国では人の器量は容姿に現れるという信仰があります。

容姿の立派な人物は、英雄となる相を持っているという考え方です。

そうなると逆に容姿が劣っている場合は、それだけで他人に侮られることになるのです。

劉璋の配下であった張松(ちょうしょう)はそのため出世できなかったといわれていますし、

龐統も容姿の影響があって最初は劉備に見向きもされていません。

 

 

「建安の七子」に数えられる天才文人の王粲(おうさん)もそのひとりです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「八俊」のひとり王暢

 

かつて清流派の官吏で高名な政治家に王暢という人物がいました。

清廉潔白であり、政治の手腕も見事なものでしたが宦官に疎まれ、免職となって亡くなっています。

しかしその高名は広く知れ渡っており、「八俊」という優れた政治家のひとりに数えられています。

家を継いだのは王謙ですが、大将軍となった何進に疎まれ、病も相まって免職されています。

その子が王粲です。董卓が長安に遷都したとき十四歳でした。

王粲も共に長安に移り住んでいます。

この歳にしてすでに文名が高かったというのですから驚きです。

 



長安で蔡邕に会う

 

当時、董卓からも一目置かれ、政治家であり書家であり、

学者でも音楽家でもあった超有名人の「蔡邕」に会いたいと思い、王蔡はその屋敷を訪ねます。

しかしその容姿の冴えなさから門番にすら相手にされません。

なんとか蔡邕に名前だけでも伝えてもらうと、

蔡邕はその名前を聞いて慌てて出迎えたといいます。

蔡邕は会ったこともない王粲の詩賦を絶賛していたからです。

蔡邕は王粲の才能を尊重するものの、やはり相手が子供であり、

さらにその容姿の貧弱さには驚いていました。

それでも「このかたの才は特別です。

私の家にある書はすべてこのかたに差し上げます」と宣言し、周囲を唖然とさせます。

この一件で王粲の名はさらに高まりました。

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荊州で劉表に仕える

 

董卓は王粲を黄門侍郎に任命しましたが、

ちょうど呂布の革命が起こり、董卓も殺され、蔡邕も獄死しました。

そこで王粲は荊州へ逃れます。荊州では皇族ながらその軍事力で、

孫堅を破り、袁術を追い出した劉表がいました。

劉表は董卓から荊州刺史に任命されており、やがて荊州牧となります。

「八及」のひとりに数えられる劉表ですが、実は「八俊」のひとりである王暢の弟子でした。

劉表は王暢の孫で、文名が高い王粲を歓迎しますが、

その容姿のみすぼらしさを見て内心がっかりしていました。

重用することもなかったようです。

王粲は暇を持て余し、荊州を旅して賦を作っています。

「登楼賦」という作品です。

荊州に来てからすでに十二年の月日が流れていました。

 

劉琮から信頼を得る

 

劉表はその家督を誰に継がすか煮え切らずに病没しています。

長子は劉琦、次子は劉琮です。

劉琮の背後には外戚として荊州の豪族・蔡瑁が控えています。

劉琮の方が劉表の寵愛を受けていたようです。

王粲は歳も近いことがあり、この劉琮とは仲が良かったようです。

劉表が亡くなり、北の一大勢力である曹操が攻めてくることを知ると、劉琮は王粲に相談します。

王粲は、客将にも係わらず存在感を増してきていた劉備を警戒していました。

そして劉備に話を通さずに曹操に降伏することをアドバイスするのです。

劉表の跡を継いだ劉琮は、その言葉どおりに曹操に降りました。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

さすがに曹操も王粲の容姿を見て、才能は認めていましたがいきなり重用はしていません。

それでもやはり王粲の力を必要とした曹操は、

軍謀祭酒にて重く用いるようになり、やがて侍中に任じています。

王粲は記憶力、計算術もかなり優れていたと記されています。

容姿でずいぶんと損をした王粲でしたが、最後には曹操の車に同乗することも許されています。

残念なのは王粲の子が反乱を起こし、家が滅びたことでしょうか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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