後漢の始祖・光武帝劉秀(りゅうしゅう)ってどんな人?青年期は貧しいが性根の優しい人物Part.1

2015年11月27日


 

光武帝劉秀part1 01 劉秀、陰麗華

 

 

漢(かん)は前漢(ぜんかん)と後漢(ごかん)に分かれているのを皆さんご存知ですか。

前漢は高祖・劉邦(りゅうほう)が天下を統一して皇帝となってから約200年程度継続します。

その後、王莽(おうもう)の「新」が15年程度続いて、

光武帝・劉秀が立てた後漢王朝が再び約200年続きます。

その後は皆さんが知っている、黄巾の乱がおき、群雄割拠の時代になります。

 

今回は三国志の時代である、後漢王朝の始祖・光武帝・劉秀のお話しを

「Part.1」(青年期~昆陽戦まで)・「Part.2」(華北転戦期から後漢王朝を立てるまで)

「Part.3」(劉秀が取り決めた政策と逸話)の三本に分けて紹介します。

ではこれから後漢王朝を立てた劉秀のお話を始めます。

今回は青年期~天下分け目の戦い昆陽戦までを描いていきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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慎重で静かな青年・劉秀

光武帝劉秀part1 02 劉秀、陰麗華

 

姓は劉、字は文叔、名は秀です。

今後は劉秀(りゅうしゅう)で書いていきます。

彼の家は、皇族の末裔ですが、あまり裕福な家ではありませんでした。

性格は非常に慎重で、自分の田畑を一生懸命耕す、まじめな人と家族や村の人々から思われていました。

劉秀は平凡な青年期を送っていたわけですが、夢がありました。

それは執金吾(服がかっこよく当時のあこがれの官職)になり、

陰麗華(劉秀の地元南陽では評判の美少女)を妻にする事です。

現在の青年男子が、大企業に勤めて、カワイイ人を奥さんにしたい、

この程度の些細な夢を持って青年期を過ごしていた劉秀でした。

 



王莽が新しい王朝「新」を建国し劉秀の人生も大きく変わる

王莽

 

こんな平凡な青年が、突如戦乱に巻き込まれます。

漢の皇帝が亡くなり、王莽(おうもう)が新しい王朝である「新」を建国します。

王莽の政策は、民の生活を圧迫し、混乱を極めます。

そんな中、兄劉縯(リュウエン)が地元である南陽で挙兵し、劉秀も兄の陣営に参陣します。

劉秀は貧乏であったため、馬ではなくあるものに乗って参陣したそうです。

ここではじめての三国志クイズ‼

 

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はじめての三国志クイズ

三国志クイズ

 

劉秀は一体何に乗って兄劉縯の元へ駆けつけたのでしょう。以下の三択からお答えください。

 

1虎

 

2牛

 

3犬

 

さぁーお答えください。

 

 

 

 

 

 

 

正解は2番です。

当たったあなた。

今日からあなたも歴史マニアですねぇ。

 

劉秀は貧乏なため、馬を買うこと出来なかった

 

光武帝劉秀part1 03 劉秀

 

劉秀は貧乏であるため、馬を買う事が出来ず、農耕用の牛に乗って兄の元へ馳せ参じます。

兄劉縯の性格は「剛毅で、義侠を好んだ」そうです。

リーダーとしての素質を持った人でありました。

しかし地元ではあんまり評判が良くなく、彼が挙兵した時は、あまり兵が集まりませんでした。

劉秀が「慎重な性格」であると南陽の人々が知っていたため、

彼が兄の元へ馳せ参じると、彼を慕って多くの兵士が集まり始めました。

劉縯率いる南陽軍は、本家の劉玄(劉縯や劉秀は分家)や

緑林軍など多数の軍勢と連合し、各地で政府軍と戦い勝利を重ねていきます。

勝利を重ねていた連合軍の幹部は、新たに皇帝を擁立しようと会議を開きます。

この会議で実績のある劉縯を皇帝にしては、と言う意見もありましたが、

多数の兵力を持ち、発言権のある緑林軍系の武将達は、劉縯のような有能な人材を皇帝にすると、

連合軍内の勢力が弱体化する可能性があるとして、

「本家の劉玄を皇帝にするべしと」と強く意見を述べます。

 

【次のページに続きます】

 

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