後漢王朝のエジソンと言われる張衡(ちょうこう)。
そして興行収入10億と言われ、
関ヶ原の原作者・司馬遼太郎の小説:坂の上の雲の主人公である秋山真之(あきやまさねゆき)。
二人の生きた時間には1700年以上の差があるのですが、
深い関係があったのをご存知でしょうか。
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そもそも張衡(ちょうこう)っていったい誰なの
(画像:張衡 wikipedia)
張衡と秋山真之の深い関係をご紹介する前にまずは、
二人がどのような人物であるのか、さくっとご紹介していきたいと思います。
まずは張衡からです。
張衡は後漢王朝時代の発明家であり、
古代中国のエジソンと言っても過言ではないほど次々と色々な物を発明。
張衡が発明した物には、天球を型どった渾天儀(こんてんぎ)や現在で言うところの
地震を計測する地動儀(ちどうぎ)なるものを作り出します。
更に張衡は日食の関係性を研究しており、
まさに後漢王朝時代の中国におけるエジソンとも言える発明家でした。
秋山真之って何やった人なの
上記で張衡をご紹介しましたが、次は秋山真之をご紹介したいと思います。
秋山真之は伊予・松山生まれの人で、海軍の学校へ入っていきます。
そんな真之には逸話が多く海軍少尉候補生時代、
テストがあっても真之は全然勉強をしなくても常に成績は上位にいました。
真之が常に成績上位に位置していることを不思議がった後輩は真之へ
「先輩はどうして勉強を必死こいてやらないのにそんなに成績がいいんでしょうか。」と
尋ねられたそうです。
すると真之は「過去のテスト内容を参考にしつつ、教官の癖を見抜くのが肝心だ。
更にテストに出るようなところは何回も説明するので、
自ずとテスト問題がわかってくるのだ。」と説明したそうです。
天才と言っていい洞察力を海軍少尉候補生時代から周りから見せておりました。
その後真之は立身出世を果たして行き日露戦争(にちろせんそう)勃発時には、
連合艦隊の参謀として連合艦隊司令長官の東郷平八郎(とうごうへいはちろう)と
一緒に出征。
日露戦争の最終決戦と言われる日本海海戦の作戦は、
秋山真之が考えた七段構えの布陣で行われ、
この作戦が功を奏して日本海海戦は、
ロシア海軍から圧倒的勝利を日本海軍がもぎ取ることに成功します。
また海戦当日真之は日本の大本営へむけて「天気晴朗なれど波高し」と言われる名言を
電報で送っていることでも有名です。
さて秋山真之の略歴をご紹介しました。
では次から張衡と秋山真之の深い関係をご紹介しましょう。
一体二人にどのような関係があるのでしょうか。
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秋山真之の幼名は張衡のおかげだった
秋山真之の幼名は淳五郎(じゅんごろう)と言います。
そのため松山で真之のことを知っている後輩や同級生は、
「秋山の淳さん」と呼んでいたそうです。
そして秋山真之の名前である「真之」と幼名・淳五郎は、
後漢王朝時代のエジソン・張衡が書いた詩からもらっているのです。
張衡は後漢王朝に仕えていた時に宦官が幅をきかせてていた事に怒りを感じ、
自分の心情を表した「思玄賦(しげんのふ)」を書いたそうです。
秋山真之が生まれた時張衡が書いた「思玄賦(しげんのふ)」の
一文の「何道真之淳粋兮」を引用して幼名を淳五郎と真之と名付けたそうです。
はじめての三国志ライター黒田レンの独り言
明治時代の人物である秋山真之の名前を後漢王朝時代の張衡が書いた「思玄賦」から、
引用していたのはちょっと驚きませんか。
明治日本と後漢王朝の初期では1700年以上も開きがあるにも関わらず、
意外と接点があるのです。
歴史って年数が離れていても接点があるので不思議だと思いませんか。
まだまだ近代日本と古代中国には接点があるかもしれないので、
また何か見つけたらご紹介していきたいと思います。
参考文献 秋山真之のすべて 新人物往来社 編集など
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