許貢は後漢末に呉郡太守を務めた官僚です。
孫策に殺害され彼の食客が孫策を暗殺した事で知られ、なんとなく狂暴な孫策の犠牲者のイメージですが、許貢自身も権謀術数が多く人に恨みを買う人物でした。今回は悪辣な手法で呉郡太守に成り上がった許貢を解説します。
この記事の目次
成憲を追い落として呉郡太守へ
許貢は、人物鑑定家で蜀に逃げた許靖とも交遊があったそうで同族の可能性がありそうです。しかし、許貢は口先だけの許靖とは違い、なかなかの武闘派で兵を率いて呉郡を襲撃し、呉郡太守の成憲を武力で追放して実力で太守となります。追放された成憲は、高岱や許昭に匿われる事になりました。
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孫策に呉郡を奪われ厳白虎を頼る
建安元年(196年)許貢は江東に勢力を伸ばした孫策によって呉郡を陥落させられます。新しい呉郡太守には朱治が任命され、許貢は石城山の厳白虎を頼りました。この頃、後漢王朝(曹操)は朱治とは別に陳瑀を呉郡太守に任命していて、孫策との間は緊張状態でした。厳白虎はこの陳瑀と結んで孫策に対抗。孫策の怒りを招き和睦しようとしても許されず、余杭にいた許昭の下に落ち延びました。
一方の許貢は前後は不明ですが、どうにか孫策に許されて孫策の客将のような立場になったようです。
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朝廷に出した手紙のせいで絞首刑
孫策に除名された許貢ですが、本心から心服したわけでもなく、まだ群雄として活躍したい野心があったのか、極秘に朝廷に対して上奏文を出します。そこには、孫策は項羽に似た所があるので地方に置いては危ない。命令を出して許に召し出して監視対象にすべきと書いてありました。
しかし、この手紙は孫策配下の小役人が確保、孫策に見せてしまいます。怒った孫策は許貢と面会して、これはどういう事か?と厳しく問い詰めますが、許貢は自らの書いた手紙ではないとしらを切りました。
助命してやったのに仇で返された孫策は配下に命じて許貢を絞首刑にします。自分が蒔いた種とはいえ、最期は自力で呉郡を落としたとも思えない残念な終わり方でした。その後、呉郡太守には、許貢が追い落とした成憲が返り咲きます。
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許貢の食客が孫策を殺す
しかし、許貢に恩義を受けた食客に律儀な連中がいて、いつか孫策に恨みを晴らそうとつけ狙い、たまたま孫策が単騎で狩をしている時に襲って孫策を殺害しました。
この話は有名ですが、実は孫策を狙ったのは、許貢の食客だけではないらしく、曹操の支配下であった陳登も、厳白虎の残党をそそのかして孫策を狙い未遂に終わったようです。
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孫権が成憲を暗殺し復讐の連鎖が
孫策が殺害された事で、疑心暗鬼になったのは弟の孫権も同じでした。暗殺で惨めな最期を迎えたくないと思ったのでしょう。呉郡と会稽郡を平定した孫権は、これらの土地の有力者を次々に暗殺し禍の芽を断とうとします。
呉郡太守に返り咲いた成憲も身の危険を感じて病気を理由に太守を辞任しますが、孫権は成憲を暗殺の標的にしていました。この事を知った孔融は、なんとか成憲を助けようとして、曹操に成憲を登用する事を願い、曹操は成憲を騎都尉に命じますが、任命書が届く前の西暦204年に孫権により殺害されました。
成憲の部下の戴員と媯覧も逃げのび孫翊に使えますが、交遊関係で孫翊に叱られた事を恨み、同年の間に孫翊の配下である辺洪をそそのかして酒宴で泥酔した孫翊を殺してしまうのです。
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まだまだ続く復讐劇
孫翊が死ぬと妻の徐氏は下手人の辺洪に賞金を掛けました。翌日に辺洪が捕らえられると、媯覧と戴員は辺洪に罪をかぶせて殺害します。周辺では、媯覧と戴員が辺洪と共謀して孫翊を殺した事は周知の事実でしたが、2人の権力は強大で咎める事が出来なかったようです。調子に乗った媯覧と戴員は孫翊の愛妾を自分のモノとし、遂には未亡人の徐氏にまで手を出そうとします。
徐氏は断れば殺される事を考え、「喪が明けるまでお待ち下さい」と時間の猶予を造り、密かに復讐の計画を練ります。その間、孫堅の従兄弟の孫河が事件を知って2人を叱りつけますが、事実の発覚を恐れた媯覽と戴員は孫河も殺害しました。2人は呉に見切りをつけて揚州刺史、劉馥に内応の手紙を送り、曹操に寝返ろうとしますが、時すでに遅し、未亡人の徐氏と孫翊の部下である徐元、傅嬰、孫高等によって殺害されました。
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三国志ライターkawausoの独り言
許貢といえば、死後に食客が孫策を暗殺した事で有名ですが、実際は孫策を狙っていたのは、許貢の食客だけではなく厳白虎の手下もいたようです。そして、自分が暗殺される事を恐れた孫権は呉郡と会稽郡の有力者を軒並み殺害しますが、その中の成憲の部下が、さらに暴走し、孫翊や孫河まで殺害するに至りました。復讐に次ぐ復讐の連鎖は、強引に短期間で領地を広げ、大勢の恨みを買った孫策支配の後遺症なのかも知れません。
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