NHKドラマ西郷どん、第二回は西郷隆盛の終生のライバル島津久光が登場しました。しかし、今回の久光は、生母であるお由良(ゆら)の方にベッタリの可愛さ全開キャラTwitterでは、これではひさみちゅだというコメが出てしまう位でした。
もちろん実際の久光は生涯マザコンだったわけではなく凡君でもありません。そして、自分に逆らうモノには容赦しない冷徹さもあったのです。
この記事の目次
島津久光(しまづ ひさみつ)はどんな人?
島津久光は、1817年薩摩藩主、島津斉興とお由良の方の間に生まれます。お由良は斉興が江戸で見つけてきた妾で久光は庶子だったのです。つまり、のちに藩主となる、島津斉彬(しまづ・なりあきら)とは異母兄弟の関係になります。
本当なら藩主になれない立場の久光ですが、父である島津斉興(なりおき)は、祖父に似て西洋好きで浪費をしそうな長子の斉彬を嫌い、最愛のお由良との間の子供である5男の久光に何とかして、藩主を継がそうと考えるようになります。ただ、斉彬はすでに後継ぎとして幕府により任官されていたので、この決定を覆す事は出来ません。
なので、斉興はなるべく長生きして嫡男の斉彬が死ぬのを待ちます。嫡男の斉彬さえ死ねば、他には久光しか男子はないので、斉興の意向で藩主の地位に就けられると踏んだのです。
かくして、長子の斉彬が40歳を過ぎても父の斉興は藩主の座に居座ります。これには、斉彬も斉彬を推す薩摩藩士達も憤慨し、久光を推す藩の守旧派と激しく対立する事になります。結局それは、斉彬を支持する藩士による、お由良の方と久光の殺害未遂お由良騒動に繋がり、事件の首謀者13名が切腹、関係者50名が、遠島や謹慎に処せられました。ところが、この事件が幕府に知られ大問題になり斉興は責任を取り藩主を退き、1851年斉彬が藩主となります。ここに、久光は藩主となる道を絶たれてしまうのです。
島津久光と西郷隆盛とはどんな関係なの?
藩主の地位は、異母兄の斉彬に奪われた久光でしたが意外にも、二人の仲は悪くなかったようです。久光は、秩序や序列を重んじる性格であり、兄の斉彬を押しのけてまで藩主になるつもりはなく、ただ守旧派に担がれていただけでした。また、斉彬と同様に久光も学問好きで頭も良かったので、久光は、斉彬が藩主になってからも相談相手だったのです。
ところが、西郷どんは、その辺の事情は全く分かりませんでした。お由良の方や、斉興が久光を藩主に推すからには久光も仲間だろうとそのように考えていたのです。おまけに、主である斉彬には、男子が6名もいたのに、いずれも、幼い時に次々と亡くなっていたのです。これも、斉彬の血を絶やそうとするお由良の方や久光の謀略だと斉彬派の藩士達は憤慨し、西郷どんも、それに同調してお由良の方と久光を斬ろうと計画し斉彬に激怒され撤回しています。
ところが、そんな斉彬までが1858年に毒殺を疑われる急死をしました。これにより、藩主は久光の子で斉彬の養子になっていた忠義が継ぎ久光は藩父として、その後見になり権力を握るのです。
この毒殺に久光が関わった証拠は今の所ありません。しかし、斉彬が死んだ事で一番得をするのは久光だと誰でも分かります。西郷どんは、斉彬は久光が殺したのだという疑念が捨てられませんでした。この西郷どんの根深い久光への不信が二人の関係に亀裂を入れます。
1862年島津久光は公武合体を進める為に上洛を計画、大久保一蔵(おおくぼ・いちぞう)等の助言で、かつて、江戸や京都で政治工作をしていた西郷どんを潜伏していた奄美大島から呼び戻します。
久光としては敬愛する斉彬の遺志を継いで幕府の政治を改革し、弱体化した幕府を立て直すプランでしたが、不信感がある西郷どんは計画の甘さを遠慮なく指摘した上に、あなたのような田舎侍が、日本の政治に関わるのは荷が重いとまで言いました。部下が自分に反逆する事を許せない性格の斉彬は、この時の西郷どんの発言を根に持ち、後に命令違反を犯した西郷どんを沖永良部に流してしまうのです。以後、二人は生涯、和解する事はありませんでした。
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島津久光の子孫はどうなったの?
異母兄弟の斉彬も子沢山でしたが、女子3名を除き子供は夭折しました。一方の久光にも、正室の間に9人、側室との間に7人の子供がいましたが斉彬と違い、ほとんどが成人しています。
この中で島津家は、長男の忠義が継ぎますが、忠義も8男11女の子沢山でした。島津家は明治維新によって公爵になり、その娘達は皇室や、徳川宗家、紀州徳川家、黒田家などという名家に嫁ぎました。特に、8女の俔子(ちかこ)は久邇宮(くにのみや)邦彦王に嫁ぎ、昭和天皇の皇后である香淳(こうじゅん)皇后の母になっています。
島津久光の4男の島津珍彦(うずひこ)は、久光が元々当主を務めていた重富(しげとみ)島津家を相続し、宮司や鹿児島県立中学造士館館長、貴族院議員を歴任します。また、珍彦の3女の孝子(たかこ)は、三菱財閥の4代目岩崎小弥太に嫁ぎました。このように、島津久光の子供たちは、日本の上流階級にその足跡を残す事になったのです。今上(きんじょう:今の)天皇は、その香淳皇后の長男なので、島津久光は高祖父という事になり、実に現代の皇室は、久光の血筋という事なのです。
島津久光と生麦事件の関係性は?
生麦事件は、1862年、9月14日、久光が徳川幕府に文久の改革と言われる改革案を飲ませて意気揚々と薩摩に帰る途中東海道を南下している時に発生しました。
武蔵国橘樹郡生麦村で、700名の大名行列で進む久光の行列に乗馬したイギリス人4名の馬が進路を塞ぐように侵入します。当時、大名行列を遮る事は、無礼討ちになる程の重罪でした。薩摩藩士は、イギリス人に下馬して道を譲るように身振り、手振りで伝えますが、イギリス人一行は脇によければいいとだけ考え下馬もしないまま、どんどん行列とは逆行して進みました。
そして、イギリス人一行が久光の駕籠に近づいたのでとうとう、我慢できなくなった近習が抜刀し斬りつけたのです。イギリス人一人は死亡し、一人は軽症、二人は重傷でした。この事件でイギリスは猛抗議し賠償金と犯人の処罰を要求しますが久光は「国法に従ったまで」と突っぱね、結局翌年に、薩摩藩と英国は戦争する事になります。
1863年の9月、報復の為にイギリス艦隊が薩摩に襲来、大砲を撃ちまくり、鹿児島の市街地を焼き払います。薩摩の被害は甚大でしたが、イギリスの強さを目の当たりにした薩摩藩士は刀での攘夷が無謀である事を痛感、幕府から金を借りて賠償金を支払い和解、逆にイギリスに接近して、武器を買い入れたり留学生を派遣するようになります。意図した事ではありませんが、久光の無礼討ちは、結果として、薩摩藩の軍備を近代化し明治維新に貢献する事になります。
島津久光と久光製薬の関係性は?
サロンパスで有名な久光製薬、kawausoも筋肉痛でお世話になりました。久光製薬と島津久光、もしかして何か関係があるのでしょうか?結論から言うと、両者には何の関係もありません。久光製薬は、前身を小松屋といい、1847年佐賀県の鳥栖市で創業。創業者は久光仁平(ひさみつじんぺい)と言います。同じ九州でも、薩摩と佐賀では別の藩ですから接点はありません。もしかしたら、島津久光も、久光製薬の薬を使ったかも、、今のように交通の便がよくない時代なので、それも見込み薄かと思います。
島津久光といえば花火?
島津久光が花火を打ち上げたという話があります。これは、1871年、明治4年の事、その頃、名目上は藩の支配者として、残留していた各地の藩主が廃藩置県によって、土地を天皇に返還し、これまでの領地を失った時の事です。島津久光は、徳川幕府を倒した後に、島津幕府を夢想したという人物基本、頭は良かったのですが、封建制から抜け出せない人でしたので、藩の領地を奪われた事に激しい怒りを表します。
おまけに、この時、廃藩置県に従わない藩を討伐する為に、憎っくき西郷隆盛が軍を率いてスタンバイしていたのです。「おのれ、西郷!主の領地を取り上げるとは不忠者め!」かくして、鹿児島の自邸で久光は一晩中花火を打ち上げて、自身の怒りを表明しました。
おそらく、鹿児島のシンボル桜島の噴火と自身の怒りを重ねていたのでしょう。領地を没収された大名で、目にみえる形で廃藩置県に抗議したのはこの島津久光、ただ一人であると言われています。久光は、すっかり反動的になり明治政府の西洋化に抵抗し続け生涯和服で通し、髷も切ろうとはしなかったのです。
文久の改革は島津久光の行動が契機となった?
徳川幕府の命運に大きく影響した文久の改革も、島津久光の上京が大きな影響を与えます。元々、徳川幕府はペリー来航により平時から非常時への政治体制の改革が必要でした。それを主導したのは、徳川斉昭や島津斉彬、松平慶永でしたが、彼らは外様や親藩の大名であり幕政に直接関与できなかったので13代将軍、徳川家定の後継者に英明の誉れ高い、一橋慶喜を据え間接的に、政治に関与しようとしました。
しかし、そのような外様や親藩大名の政治への口出しを嫌う譜代大名は、彦根藩主の井伊直弼を大老として、将軍後継者も、血統で12歳の紀州藩主、徳川慶福にしようとします。両者は対立し、途中で斉彬は急死、さらに井伊直弼は強権発動で安政の大獄を起こし、斉昭や慶永を蟄居謹慎させます。ところが、弾圧によって恨まれた直弼も、桜田門外で水戸藩士等に襲撃され暗殺、これで両派koになり幕府の改革は停止します。そこに、1862年、兄である斉彬の遺志を継ぐとした久光が上京し、孝明天皇に幕府政治の改革プランを提示し、大半に許可を得て、意気揚々と江戸に向かいました。
昔の幕府なら、「無礼者下がれ!」で久光を退けられましたが尊攘派の相次ぐテロで中心人物を殺されたり負傷させられた幕府はすっかり自信を無くしており、久光が持ってきた改革案の大半を拒否できず飲んでしまうのです。その改革案は以下のようなものです。
1水戸派の悲願だった、一橋慶喜の将軍後見職への起用
2開明派の松平慶永の政治総裁職へ起用
3京都守護職を置いて、過激な尊攘派を取り締まり治安を守る
4参勤交代を三年に一回に緩和し、江戸に人質になっていた
大名の妻や子供を国元へ帰す事、
5兵制を洋式に改めて西洋の技術を研究する機関を造る
等など、江戸幕府250年の歴史を一変させる大改革でした。
これらの改革は、旧態依然とした幕府を改革させましたが、命令は天皇の勅令の形なので、これまで以上に朝廷は幕府の政治に口を出し、幕府の権威は弱体化していくのです。島津久光は、幕末の最後辺りまで幕府寄りでしたが、文久の改革は、どちらかと言えば、幕府の寿命を縮めたかもしれません。
幕末ライターkawausoの独り言
以上、西郷どんのライバルだった?島津久光について解説しました。実質、久光と西郷どんはライバルというよりは、上司と部下でしたが、西郷どんが、実際に仕えているのは、藩主の島津忠義であり、久光は藩主の父という無位無官で薩摩藩以外ではとても通りが悪い地位でした。
ただ、藩父の久光は、忠義を差し置いて出しゃばり、能力もあるので、西郷どんとしては、社長の親父が、あれこれ会社業務に口を出すという居心地の悪さを感じる嫌な相手であり、久光にとっても、西郷どんは、尊敬する兄の寵臣であり、明確に自分を嫌っている事が分かるいけすかない相手でした。
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