【正史三国志】呉書を参考に孫権が皇帝へ登るまでの歴史をご紹介

2018年1月22日


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三国志は三つの帝国が天下統一を目指して戦いを繰り広げていった歴史です。三国志の三つの帝国の内最大の領土を持っていた

 

中国の一番西に勢力を持ち、魏と激闘を続けた蜀。そして今回の主役勢力である南の地域を保有した呉。呉は孫権(そんけん)が皇帝に就任したことによって、帝国となるのですが、孫権がどのような道筋を辿って皇帝になったのか知っていますか。

 

今回は三国志を初めて知った人達の為に、呉の帝国を作った孫権が皇帝に登るまでの道筋をざっくりご紹介していきたいと思います。以前孫呉の歴史を赤壁の戦い関羽討伐までをざっくりと描いているので、ここでは夷陵の戦い~皇帝に登るまでを記して行きたいと思います。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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黄武元年(222年):陸遜の火刑で劉備軍撃退成功!!(夷陵の戦い)

 

孫権は関羽を討ち取り荊州を領土にすることに成功。劉備(りゅうび)は義兄弟の関羽が孫権に討ち取られたことに激怒し、黄初三年(222年)荊州の奪還を果たすべく進撃を開始します。

 

陸遜の火計に嵌ってしまい戦死する馮習

 

孫権は劉備軍が荊州へ向けて侵攻してきた事を知ると陸遜(りくそん)を総大将に任命して劉備軍を撃退するべく出陣。陸遜は劉備軍の攻撃に対して黙って耐え続けて劉備軍の隙を見つけると、火刑を決行。陸遜の火刑は大成功を果たし、劉備軍に大勝利するのでした。

 

 

 

黄武元年(222年):魏の大軍が三方面から攻撃を繰り広げてくる!!(濡須口の戦い等)

 

孫権は関羽を討ち取って荊州を奪った際、魏に臣従する形を取っておりました。曹操(そうそう)の跡を継いだ曹丕(そうひ)は孫権へ「息子を差し出せ」と要求してきますが、何度も理由をつけて断ります。

 

曹丕は孫権が理由をつけて息子を差し出さないことに激怒し、江陵・洞口(どうこう)、濡須口(じゅしゅこう)の三方面へ攻撃を開始。孫権は曹丕軍の攻撃を撃退するため、三方面へ援軍を派遣することにします。この三方面の戦いは孫権軍が各地で魏の軍勢を撃退することに成功するのでした。

 

 

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黄武二年(223年)蜀呉同盟復活!!

 

黄武二年(223年)夏。蜀の皇帝劉備が亡くなります。劉備の跡は息子の劉禅(りゅうぜん)が皇帝となって君臨することになり、諸葛孔明(しょかつこうめい)が丞相となって、蜀の国の政治を動かしていくことになります。

 

蜀の外交官・鄧芝

 

諸葛孔明は呉との同盟関係を復活させるため鄧芝(とうし)を派遣。孫権は鄧芝と会見を行い蜀との関係を修復して、再び同盟を結ぶ決意をするのでした。こうして再び呉と蜀の同盟関係が復活することになります。この年から呉と蜀の使者は国家間を往来して、友好関係を深めていくことになります。

 

 

 

黄武五年(226年):曹丕が亡くなった事を知り魏へ攻撃するも失敗

 

黄武五年(226年)。魏の初代皇帝曹丕(そうひ)が突然の病のせいで亡くなってしまいます。孫権は曹丕が亡くなったことを知ると魏の領土である江夏(こうか)へ向けて、攻撃を開始させます。

 

しかし江夏城を守っていた文聘(ぶんぺい)が必死に守ったため、江夏城を陥落させることができずに撤退するのでした。

 

 

黄武七年(228年):お家芸「偽降伏」に騙された曹休軍をフルボッコ(石亭の戦い)

 

孫権は家臣の周魴(しゅうほう)に呉に背いて魏に降伏するように命令。周魴は魏の揚州を監督していた曹休へ降伏する旨を書いた手紙を送ります。曹休は周魴の降伏を疑っておりましたが、周魴から何度も届く手紙を見て信じることに。

 

曹休は周魴の言葉を信じて大軍を率いて呉の領土へ向かいます。孫権は陸遜を総大将に任命。陸遜率いる呉軍は石亭で曹休軍を迎え撃つ体制を整え、曹休軍がやってくると全軍で総攻撃を行います。

 

陸遜率いる呉軍は曹休軍をボコボコにし、大損害を与え大勝利を得ることになります。曹休は呉軍にフルボッコにされてしまいますが、何とか危機を脱出して、逃げることに成功しますが、この敗北の責任を感じて亡くなってしまいます。呉軍が勝利したこの戦いを後年「石亭(せきてい)の戦い」と呼ばれることになります。

 

 

 

黄龍元年(229年):孫権ついに皇帝へ「三帝国の並立」

 

孫権は石亭の戦いで魏軍に大勝利すると家臣から「皇帝になりなされ」と進言されます。孫権は遠慮して「皇帝になるように天が祝福してない」と言って、家臣の言葉を退けます。

 

しかしこの年の四月に領内の夏口(かこう)と武昌(ぶしょう)から黄色いと鳳凰が出現します。孫権はこの神話の動物達が出現した事をきっかけに、自らが皇帝へと登る決意をします。

 

こうして孫権は家臣達から推薦される形で皇帝になり、魏の曹叡(そうえい)、蜀の劉禅(りゅうぜん)、呉の孫権と三つの帝国が中国に出現することになるのです。

 

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

いかがでしたでしょうか。孫権が皇帝に就任するまでの歴史をざっくりとですがご紹介してきました。ここまで孫権は大きな失敗を犯すことなく国を栄えさせていきます。しかし孫権は晩年になると色々と失敗を犯していくことになるのです。

 

どのような失敗を孫権が犯していくのか。次回は孫権の晩年期をご紹介していきたいと思います。さて話は変わりますが、魏・蜀・呉の君主が皇帝になる直前、必ずと言っていいほど神話上の動物が領内に出現しているおります。これだけ龍や鳳凰などの伝説の動物が出現するのですから、三国志の時代は伝説の動物が多く見れる貴重な時期だったのかもしれませんね。

 

 

参考文献:ちくま文芸文庫 正史三国志 小南一郎訳など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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