NHK大河ドラマ西郷どん、西郷隆盛(さいごうたかもり)の生涯を追うドラマにおいて、西郷どんや島津斉彬(しまづ・なりあきら)の最大の敵が、佐野史郎演じる彦根藩主大老、井伊直弼(いいなおすけ)です。
彼は、幕府の政治を守る為に、反対派には容赦なく弾圧を加え、安政の大獄を起こしこの為に、尊王攘夷の志士に恨まれ、桜田門外で無残な最期を遂げる事になります。井伊が殺された事件を桜田門外の変と言い、日本史暗記、語呂合わせでは
一(1)派(8)群れ(60)井伊片付ける桜田門で覚えられます。
この事件は井伊の命だけでなく、幕府の寿命も縮めてしまうのでした。今回は、日本史上の大事件、桜田門外の変を簡単に解説します。
桜田門外の変の概要を簡単に解説
桜田門外の変には、当時の日本を揺るがした2つの大きな問題が絡んでいます。
1病弱な徳川家定の後継者を誰にするか?という後継者問題。
2天皇の許しも得ずに幕府が独断で結んだ日米修好通商条約。
この2つの問題について、血統と幕府の専権事項を振りかざして、尊攘派を弾圧して強引な解決を図ろうとして殺されたのが井伊直弼です。
1の将軍後継者問題について、井伊直弼は、能力第一で英明の誉れ高い、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を後継者に押そうとする水戸派、水戸斉昭(みとなりあき)や島津斉彬、松平慶永(よしなが)という開明派大名に対し、井伊直弼は、
「将軍後継者には、血筋が第一であり、8代将軍吉宗公の血統に近い紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)こそふさわしい」として家定が病死すると、さっさと慶福を将軍後継者に決めてしまいます。
当時朝廷は「ご時世であるから将軍には年長者が相応しい」としますが慶福は12歳の少年であり、21歳の慶喜よりずっと年下でした。2の日米修好通商条約締結については、朝廷が強硬に反対していて、幕府は老中の堀田正睦(ほったまさよし)を派遣して周旋していましたが、まるで効果が無く、先延びになっていました。
それを井伊直弼は独断で条約を結び、それに抗議して登城してきた一橋慶喜や、徳川斉昭、徳川慶篤(よしあつ)、徳川慶勝(よしかつ)松平慶永を、登城日ではない日に抗議して怪しからんと処分しました。
もちろん、井伊直弼にも言い分はあり、元々鎖国は朝廷に関係なく幕府の一存で決めた事であり、また外交も幕府の専権事項でした。だから、朝廷の許可など必要ないで押し切るのですが、すでに前年に、堀田正睦を送って朝廷の許可を得ようとしている以上、これは、見苦しい言い訳だとしか取られませんでした。なので朝廷を敬う尊王攘夷派の人々により、「井伊直弼は朝廷を蔑ろにして怪しからん!」と恨みを一心に集める事になったのです。
桜田門外の変の場所はどこで起きたの?
では、桜田門外の変の桜田門とは、一体どこにあるのでしょうか?
現在の住所は、東京都千代田区千代田1-1で皇居(旧江戸城)、桜田濠と凱旋濠の間に門が建っています。近くには、警視庁と検察庁があり、俗に警察を隠語で桜田門と呼ぶのは、こちらの桜田門に近いためです。桜田門には、外門と内門があり、外門を高麗門、内門を渡櫓門といい事件が起きたのは、外側の高麗門でした。
江戸時代の桜田門は、登城する大名達が駕籠で通過するポイントでつまり、彦根藩主であった井伊直弼の大名行列も、この桜田門を通過する必要がありました。ですから、井伊を暗殺しようと思えば桜田門こそが、絶好の襲撃ポイントでもあったのです。ちなみに井伊直弼の駕籠が出てきた彦根藩邸は、この桜田門から直線距離で、僅か西に500メートルしか離れていませんでした。彼は、自邸と目と鼻の先で非業の最後を遂げてしまうのです。
桜田門外の変といえば雪が印象的?
桜田門外の変については、雪が印象に残っている人も多いと思います。錦絵でも映画などでも、桜田門外の変は雪景色の中で、血の赤と雪の白のコンストラクトが効果的に使われています。それだけに、あまりに劇的で、フィクションなんじゃないか?と思いがちですが実際に1860年3月3日、桜田門外の変の時には、雪が降っていたようです。その証拠としては、彦根藩の供回りが、雪を避ける為に笠を被り、蓑をつけて、刀も束と鞘が水分で傷まないように袋を被せていた事で分かります。
しかし、彦根藩士の雪対策は仇になってしまいました。なんと、朝から降っていた大雪は、午前9時頃には雨混じりになり、同時に薄陽が差してきていたのです。まさに運命のいたずら、もし、大雪が降り続いていれば襲撃は失敗し駕籠は狼狽しながらも、何とか桜田門をくぐったかも知れません。そうなれば、井伊直弼も死なず、幕末は違った動きをした事でしょう。
雪が止んで襲撃する側は有利に、守る側の彦根藩には不利になりました。泰平に慣れた彦根藩の武士は突然の襲撃に慌て、刀を袋から出す余裕もなく蓑や笠も取れないまま、素手で対抗し、指を切り落とされたり、耳を削がれたりし、駕籠かきや大勢の藩士が逃げてしまったのです。総勢60人はいた彦根藩士の中で、現場に残って防戦したのは、10人足らずと6分の1でした。
桜田門外の変の犯人は誰?
では、桜田門外の変の犯人は、誰だったのでしょうか?
内訳を見てみると、井伊直弼襲撃の中心人物、関鉄之助(せき・てつのすけ)等、水戸藩士が14名でダントツのTOP次に常陸の神官が3名、最後が薩摩藩士が1名であり、水戸藩士が圧倒的に多い事が分かります。では、どうして水戸藩士が井伊直弼を暗殺しようとしたのでしょうか?
まず、水戸藩は、水戸学という学問が盛んでした。これは、日本の支配者は天皇であり、徳川将軍以下、すべての人民は天皇の命令に従うべきと考える学問です。
同時に、水戸学は日本古来の文化や価値観を重視し、後から入った文化、仏教などが神道と習合した事を嫌い、元に戻そうとし藩内の仏教徒を弾圧して、強制的に一般人に戻したり、寺を打ち壊し、梵鐘(ぼんしょう)を奪って溶かし大砲に替えるなどかなり極端な排外主義を含む思想でした。
そのような学問ですから、井伊直弼が朝廷の許しも得ないで日米修好通商条約を結んだというのは、許しがたい暴挙でした。神国日本に、汚らわしい異人を入れるのか!というわけです。また、幕府に無視された朝廷でも、井伊直弼の独裁を問題視して特に尊王の志が強い水戸藩に勅書を下して、全国の大名が朝廷を無視する幕府に抗議し、首謀者である井伊の罷免を求めるべき趣旨の事が書かれていました。
この内容は幕府にも伝わり、強い衝撃を与えました。江戸260年で天皇が直接、全国の大名に命令を下した事など一度も無かったからです。
危機感を募らせた幕府は、水戸藩に勅書を朝廷に返還せよと命じます。もちろん、水戸藩にも幕府あっての藩という穏健派もいて、それに応じようとしますが、熱烈な尊王派が、これを阻止します。水戸藩は、藩を二分する大騒動になり刃傷沙汰まで発生し、水戸藩主の徳川慶篤は、勅書を返す事も実行も出来ず、ひたすら、幕府に対して返答を引き延ばすという情けない対応に出ます。
これに対して井伊大老は厳しく当たり、実行しないなら、水戸藩を取り潰すとまで脅迫、このような井伊の態度に対して、切羽詰まった水戸藩士の尊王派が、起死回生の手として考えたのが、井伊直弼を暗殺して、幕府の方針を強引に変えるというテロリズムでした。
桜田門外の変で有名な映画は?
桜田門外の変は、その劇的な場面構成と雪の桜田門という絵になる風景から戦前から沢山の映画が造られました。最近では、2014年に柘榴(ざくろ)坂の仇討が、中井貴一が扮する架空の彦根藩士、志村金吾の視点から描かれます。一方で、2010年には、大沢たかおが、水戸藩士の関鉄之助に扮して水戸藩の立場から見た桜田門外ノ変も制作されました。面白いのは柘榴坂の仇討では、井伊直弼を中村吉右衛門が演じているのに対し桜田門外ノ変では、同じ井伊直弼を伊武雅刀が演じていて、いかにも憎々しい悪役ぶりを発揮している事ですね。
彦根藩と水戸藩、討つ側と討たれる側から映画を見る事で、桜田門外の変の理解が深まるかも知れませんよ。
幕末ライターkawausoの独り言
桜田門外の変は、徳川幕府の寿命を決定的に縮めた大事件でした。幕府の最高権力者が、江戸城の目の前で、それも、たった18名の襲撃で10分足らずで首を討たれてしまったのです。幕府に昔日の力がない事は誰の目にも明らかでした。この事件から、8年後、徳川幕府は崩壊し明治時代が始まるのです。
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