1853年江戸時代の日本にやってきたアメリカ東インド艦隊司令官ペリー提督。YouTubeの動画語呂合わせでもイッ(1)パツ(8)降参(53)狙ったペリーで有名ですがそもそもペリーはどうして黒船を率いて、日本を開国させようとしたのでしょうか?
知っているようで案外、ズバリと説明できない日本史の一大事件を、はじ三ではざっくりと解説したいと思います。
この記事の目次
ペリー来日理由1 捕鯨産業の補給基地として日本が必要
今では反捕鯨国になっているアメリカからは想像もできませんが、1850年代のアメリカでは捕鯨は一大産業になっていました。
クジラは、鯨油が灯油、工業用グリセリン、潤滑油、石鹸、皮革産業で必要不可欠それにクジラの髭は当時の欧州で大流行していた膨らませたスカートクリノリンの骨組みの原料であり、またプラスチックが無かった時代には工芸用品として盛んに利用されました。
17世紀の後半にマッコウクジラに良質な鯨油が取れると分かると、北米沿岸で商業捕鯨が盛んになり、瞬く間に近海のクジラ資源を枯渇させます。そこで、アメリカは捕鯨船を大型化し、クジラを取って油と髭と骨などを得て樽に詰め、肉は全て捨てるというやり方で長期間操業するアメリカ式捕鯨を完成させていきます。欧州の捕鯨船は、どんどん大型化し世界中の海を巡ってはクジラを獲ります。やがて船は蒸気船になりますが、当時の蒸気船は定期的に薪と水と食料を補給しないとならず、また燃費も相当に悪いものでした。
太平洋で操業していたアメリカの捕鯨船ですが、沿岸に面する日本が異国船打ち払い令を出し通商も補給も認めないので、捕鯨業者はアメリカ政府に「日本を開国させて薪水、食料補給の便宜を図らせろ」と言い出します。捕鯨業者の献金は政治家の重要な資金源ですし、捕鯨産業の発展には、日本の鎖国を解かせるのが有益でもありました。ペリーの来日は、そのような捕鯨業者の要請をアメリカ大統領が汲んで行われたものでもあったのです。
ペリー来日の理由2 中国市場に食い込む為に極東に拠点が欲しかった
今からは想像できませんが、建国から70年が経過した頃のアメリカは、イギリスやフランス、オランダにも勝てないような三流の国でした。広大な国土を持つアメリカは、国内整備とインフラに膨大な時間がかかりなかなか軍備を整えたり工業化を促進したりするのが難しかったのです。
1848年、米墨戦争に勝利してカリフォルニアを併合したアメリカは太平洋と大西洋、二つの海に面した大国となり、4億人の人口を持つ中国との貿易に乗り出します。しかし、植民地市場として有望な中国はすでにイギリスとのアヘン戦争によって敗れ着々とヨーロッパ勢力による植民地化が進んでいました。
出遅れたアメリカは、アヘン戦争後の1842年に清朝と望厦条約を締結して中国に進出を果たしましたが、アメリカは太平洋の向こうにあり中国からは遠いので極東の前線基地として、日本或いは琉球に軍艦の寄港地を必要としていました。ペリーの日本への来航は、中国市場に食い込みたいアメリカの帝国主義の一環でもあったのです。
関連記事:徳川慶喜とはどんな人?英雄・ヘタレ徳川最後の将軍に迫る
ペリー来日の理由3 ペリーの個人的な名誉欲の為
実は黒船来航はペリーが最初ではありません。年表を見ると1837年には、アメリカの商船モリソン号が日本人漂流民を連れて通商を求めて来航し、異国船打ち払い令によって追い返されていますし、1845年には捕鯨船マンハッタン号が22人の漂流民送還の為に日本に来航し浦賀への入港を許されアメリカ人としてはじめて日本に上陸しました。
1846年には、アメリカ東インド艦隊司令官のジェイムズ・ビドルが2隻の軍艦を率いて江戸幕府に通商を求めますがあっさりと拒否されて引き下がっています。1849年には、アメリカ海軍のジェームス・グリンが前年に船が難破して漂着したラコタ号の船員の引き渡しと日本に密入国して捕えられた米人マクドナルドの返還を幕府に強硬に迫り目的を達して帰国しました。
このような経緯から日本はなかなか開国しない手ごわい国だと認識されます。そこに目をつけたのがアメリカ海軍の技術将校であったペリーでした。アメリカ海軍を蒸気船化して近代化したり、武器を改良したりと色々功績はあるペリーですが彼の兄であり、米英戦争で活躍した英雄オリバー・ハザード・ペリーには、全く知名度で及びませんでした。
すでに50歳を過ぎ、退役を間近にしたペリーは日本を開国させれば兄を超える名声が得られるだろうと考えて日本を研究し、自ら日本開国計画書を、海軍長官のグラハムに提出して受理され、やがて日本開国の命を受けて総勢2000名弱の兵員を連れ、東インド艦隊を率いて浦賀に出現するのです。ペリーは前任のジェームス・グリンの強硬な態度を参考に威圧的な態度を取り「交渉は長崎で行いたい」という幕府の要請を無視、江戸に近い横浜で交渉して武力をちらつかせ、日米和親条約を締結、次に伊豆に移動、下田条約を結びます。
こうして、誰も成し遂げなかった日本開国を成し遂げたペリーですが、アメリカでは、その頃、奴隷制を巡り、奴隷制否定のアメリカ北東州と、奴隷制容認の南部諸州の対立が先鋭化して海外進出どころではなくなっておりやがて南北戦争が勃発するに至り、ペリーの偉業は忘れさられていきました。
ペリー来日の理由4 非文明国を文明化する西洋文明優越主義
北アメリカ大陸には、元々ネイティブアメリカンが住んでいました。そこへやってきたイギリスの移民は次第に数を増やし、ネイティブアメリカンを圧迫し支配地を拡大しネイティブアメリカンを放逐しはじめます。しかし、後から入ってきて人の土地を奪う事は少なからず良心の呵責が生じるので1845年にアメリカ人のコラムニスト、ジョン・オサリバンが、それを正当化するマニフェスト・デスティニーという標語を生み出しました。
これは明白なる使命と訳され、文明は古代ギリシャ・ローマからイギリスに移動しそして大西洋を渡ってアメリカに渡り、さらに太平洋を渡ってアジア大陸を制覇し世界を文明化するという文明の西漸説に基づいたイデオロギーです。つまり、西洋文明こそが唯一の文明であり、それを拡大して野蛮な人々を啓蒙する為にアメリカ人は西へ西へと進み、世界中の非文明人を教化する使命を神より明白な使命として与えられているとしました。
アメリカが西へ西へと膨張するのは決して侵略ではなく、文明の普及であり神の御心であり、それに抵抗するものは天命に逆らうのだから虐殺しても許されるというわけです。甚だしい思い上がりですが、すでにネイティブアメリカンを大量に殺戮し自分達の罪から目を背けたいアメリカ人にはマニフェスト・デスティニーはまさしく福音であり免罪符でした。
ジョン・オサリバンの造語は、すぐに合衆国政府が採用し文明の名の元に米墨戦争、米比戦争、米西戦争などの正当化やフィリピン領有、ハワイ併合を促進させる精神的な支柱になったのです。琉球と強引に琉米条約を結んだペリーは、善良な琉球の人々を悪徳船乗りから守る為に、西洋諸国は善意の関与をしていかねばならないと述べ力づくの植民地支配を正当化する考えを吐露しています。アメリカ人から見れば、日本は西洋文明を受け入れない非文明人であり教化していかないといけない憐れな未開人に過ぎませんでした。
幕末ライターkawausoの独り言
以上、あまり知られていないペリー来航の目的について書いてみました。単純な開国要求の向こうには、捕鯨船産業の隆盛やアメリカのアジア進出、ペリーの個人的な名声の追及や、マニフェスト・デスティニーに基づく非西洋文明国への傲慢な征服欲が隠れていたのです。
関連記事:ペリーとはどんな人?日本開国の動機は有名過ぎる兄を超える為だった!
関連記事:島津斉彬はイギリスをどう思ってた?島津斉彬の功績に迫る!
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」