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大久保利通と西郷隆盛西南戦争の原因は王道vs覇道の対立だった

2018年3月2日


 

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明治維新を打ち立てた維新三傑(いしんさんけつ)大久保利通(おおくぼとしみち)西郷隆盛(さいごうたかもり)

大久保利通と西郷隆盛の仲は心を通わせた真友同士で、

話さなくても相手のことが分かる間柄だったようです。

 

しかし二人は西南戦争(せいなんせんそう)を機にバラバラになってしまいます。

以前黒田レンは西南戦争の原因を執筆しましたが、

今回は違う角度から西南戦争の原因を探ってみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【新事実】征韓論の推進は大久保利通で西郷隆盛が反対していた!?

 

征韓論(せいかんろん)は維新の元勲・西郷隆盛が朝鮮半島へ出陣してを開国する主張で、

大久保利通が西郷の意見に反対していました。

でも実は西郷隆盛が征韓論に反対していたのをご存知ですか。

征韓論は1871年に明治政府の高官・大久保や木戸孝允(きどたかよし)らが朝鮮半島へ兵を送るように主張。

しかし政府の方針に西郷隆盛は「まだ早い」と朝鮮出兵に反対。

明治政府のトップに近い位置にいた大久保利通や木戸孝允らが積極的に朝鮮半島へ出兵しようと考え、

西郷隆盛が反対していた事実がお分かりになると思います。

 

西郷と大久保の関係が壊れたのは帝国主義と大アジア主義が原因

 

西郷隆盛は大久保利通達に征韓論を潰された事に怒り、政府をやめて鹿児島へ帰ります。

でも西郷は征韓論で大久保と意見を激しくぶつけた合っただけで、

二人の関係性が壊れるほどではありませんでした。

 

ではどうして二人の関係性は壊れてしまったのか。それは江華島事件(こうかとうじけん)が原因です。

江華島事件とは一体なんでしょう。

明治政府が朝鮮王朝の領土へ測量を名目に江華島に侵入し、

それに朝鮮側が砲撃を加えたので応戦し砲台などを破壊して占領し

朝鮮王朝と不平等条約を結んだ事件です。

この上記の事件は大久保利通など政府高官らが主導となって、引き起こしたものでした。

(画 江華島事件:Wikipedia)

 

西郷は江華島事件の詳細を知って激怒します。

西郷隆盛はどうして怒ったのでしょう。

それは西郷が主張した征韓論(大アジア主義)を大久保ら政府高官が反対しながら、

帝国主義(西欧諸国)の真似事をして朝鮮王朝に不平等条約を結ばせた事が原因です。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末

 

不平士族の反乱は自由民権運動と連動していた!?

 

西郷隆盛は明治政府を辞めて鹿児島へ帰り、大久保利通のやり方に激怒していました。

そんな中、全国各地で元士族達が新政府に反乱を起こす事件が勃発。

また板垣退助(いたがきたいすけ)らが明治政府に対して、自由民権運動を起こします。

この二つの事件は関係性があるのでしょうか。

 

二つが連動していたことをお話する前に自由民権運動とは何かをさくっと紹介しましょう。

自由民権運動とは板垣退助が同士と一緒に

明治政府へ言論の自由や憲法制定などの提案した政治運動の事です。

自由民権運動には各地の不平士族達も参加することになり、

全国的な規模で明治政府に抗議するデモ活動が拡大することになります。

 

自由民権運動の内容をさくっとご紹介しましたが、

不平士族達の反乱と連動していたのでしょうか。

結論を言いますと関連性があったと言えます。

 

なぜならばこの自由民権運動の初期は不平士族達に重きを置いて、

明治政府から士族の民権を獲得しようとする動きでした。

そしてこの自由民権運動の直後、佐賀で不平士族達を中心にした反乱がおきます。

 

また自由民権運動に参加していた不平士族や板垣退助の同士達は、

西南戦争と連動して挙兵しようとしていたそうです。

これらの事から不平士族と自由民権運動は連動しており、

新政府を変革させようとした勢力だったと言えるでしょう。

 

明治政府の政治は素晴らしかったの??民選議院設立建白書を読んでみた

 

さて不平士族達は明治政府に不満を爆発させて、反乱を各地で起こします。

また明治政府のやり方を批判する自由民権運動が全国各地で起きますが、

これらを見ると明治政府の政治は素晴らしくないように思えます。

 

でも民衆には素晴らしい政治を施していたのかもしれません。

そこでレンは明治政府の政治内容を知るために、明治政府を辞めて下野した

板垣退助や江藤新平(えとうしんぺい)が署名して提出した民選議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を読んでみました。

しかしこの建白書超長いので、明治政府が当時どのような政治をしていたのか知る為、

建白書を抜粋してちょっとだけご紹介。

まずはこの部分

 

「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、
上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス。」

 

これを簡単に訳すと陛下の忠実な我らが恐れながら思うに、
現在の政治の実権が誰に有るのかと考えました。

私見ですが、上は天皇に有る訳ではなく、下は国民になく、
実権は新政府の高官(薩長の指導者達)が独占している状況にあります。

 

当時は天皇が政治の実権を握っていたのではなく、明治維新の中心となった

薩摩と長州が政治の実権を握っていたことが分かりますね。

 

では二つ目はこちらです。

 

「而政令百端、朝出暮改、政情実ニ成リ、
賞罰愛憎ニ出ヅ、言路壅蔽、困苦告ルナシ。」

 

政府の命令はすぐに変り、政策はコネで決定されるありさま。
また薩長の人達に気に入られればご褒美がもらえ、嫌われれば罰せられる。
そして言論の自由は無くてみな大変苦しんでいます。

とんでもないことが書いてありますね。

薩長系の政府高官達が政治を好きなように動かしている当時の状況が分かると思います。

ただ、この建白書は板垣退助らの主観も混じっているので、100%信じることはできないと思います。

 

でも明治政府の実態がこの建白書で分かり、いい政治を行ったとは言えません。

むしろ個人的には徳川幕府の政治の方が良かったのではないのかなって思ってしまいます。

皆様はどのように思いますか。

 

西南戦争は維新をやり直そうという志士と帝国主義を突き進む元志士の最後の激突

 

さて自由民権運動がきっかけとなり、明治政府に不満を持っていた士族達が反乱を起こします。

しかし反乱はことごとく失敗することに。

そしてついに維新三傑の一人・西郷隆盛が立ち上がります。

 

西郷隆盛は鹿児島から北上し熊本城を包囲。

熊本城には守備兵が少なく西郷軍の厳しい攻撃が続き、いつ落とされてもおかしくない状態でした。

西郷軍は熊本城を救援しに来た新政府軍を追い払うため、田原坂(たばるざか)で新政府軍と激突。

当初は西郷軍が優勢でしたが、新政府軍の兵士の多さ、武器の多さに圧倒されて敗北してしまいます。

 

しかし西郷軍は新政府に屈することなく九州を転戦。

ですが西郷隆盛率いる反乱軍は徐々に追い詰められ、

最終的に鹿児島の城山に追い詰めれて自刃して亡くなります。

西郷の反乱を「西南戦争」と呼ぶことになります。

 

さて大久保利通は西郷隆盛が自刃した事を記した手紙を家で読んでいる時、

動揺して柱に何度も頭をぶつけ、泣きながら手紙を読んだそうです。

この時大久保利通が何を思っていたのかわかりません。

一つ言えることは西郷隆盛が掲げた明治政府の改革と大アジア主義が現実になることはなく、

大久保利通が掲げた帝国主義が日本の外交方針になった事です。

 

幕末ライター黒田レンの独り言

 

レンは西郷隆盛が起こした西南戦争に対しては、新政府のためだと思っております。

一つ理由を挙げるとすれば、どうして西南戦争で明治政府を大きく揺るがした西郷隆盛が

上野に銅像を建てられる事になったのか。明治政府に敵対した西郷隆盛は本来なら賊と一緒です。

 

でも明治政府は上野に西郷さんの銅像を建てるように命じている事から、

西郷隆盛が明治政府のために反乱を起こしたと思えるのです。

レン独自の視点で考えた西南戦争の理由を簡単に記しているので、

気になる方は見てください。

 

 

さて現在大河ドラマ「西郷どん」は人気がうなぎのぼりで大きな反響を呼んでいるそうです。

西郷どんの最終回まではかなり時間があるので、西郷隆盛と大久保利通の決別理由の予習や

西郷隆盛が起こした西南戦争の予習としてこの記事をご覧になってはいかがでしょうか。

 

参考文献 中公新書 西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 小川原正道著等

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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