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井伊直弼とはどんな人?井伊の赤鬼は泣いた赤鬼だった

2018年3月4日


 

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2018年のNHK大河ドラマは西郷どんです。

昨年の大河は徳川四天王の筆頭になる井伊家の祖、井伊直政(いいなおまさ)も登場する女城主直虎(なおとら)

今年の大河にも、井伊直政の子孫である井伊直弼(いいなおすけ)が出てくるのですが、

前評判を聴く限り、期待を裏切らない悪役になるようです。

確かに天皇に無断で条約を締結し、安政の大獄で将来有望な志士を大勢殺した為に

井伊直弼は狭量な悪人の評価を貼られていますが、真実の井伊直弼の素顔は

決して井伊の赤鬼ではなく、誠実で真面目に職務をこなした人だったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大名にもなれず一生飼殺しの運命、惨めな青年時代

 

井伊直弼は、1815年文化12年、彦根藩主、井伊直中(いいなおなか)の14男として生まれます。

幼名は鉄之助で、母はお富の方と呼ばれた側室でした。

直中は子沢山で知られ、井伊直弼も50歳の時の子供だそうです。

孫のような息子の鉄之助を直中は特に愛しますが、直弼の将来は暗いものでした。

 

直中は、15人の男子がいて後継ぎ以外は他藩の養子に出そうと努力しますが

あまりに数が多すぎて、なかなか養子の先が見つかりません。

直弼が20歳の頃に、養子の話が出たものの、先方が選んだのは異母弟の直恭(なおやす)でした。

こうして、色々な事を諦めた直弼は、部屋住みとして300俵の捨扶持を貰い

彦根城と濠を挟んで反対側にこじんまりした屋敷をもらい埋木舎(うもれぎのや)と名付けます。

 

(私はもう大名にはなれない、一生部屋住みの身分だ・・

だが、自分の時間はたっぷりあるのだから、趣味と芸事に生きて

井伊家の埋もれ木となって静かに朽ちていこう)

 

何とこの時、井伊直弼は17歳、本当なら未来の希望に溢れた青春真っ盛りで

直弼は芽の出ない日陰の人生を生きようと決意したのです。

 

有り余る時間を使い、直弼は茶道、能、居合、禅、歌道と様々な芸事を極めます。

立身から外れた直弼を彦根城の家臣たちは、ちゃかぽん様と呼んだそうです。

お茶と歌道と能の鼓の「ポン」という音を併せたものですが、

「部屋住みの御身分は気楽なもんだ」と笑ったのでしょう。

 

しかし、この部屋住み時代に直弼は腹心となる長野主膳(ながのしゅぜん)などと出会い

交友を深めているので、決して無駄な時間ではありませんでした。

 

藩主と後継者が死に、一人残っていた直弼は彦根藩主になる

 

このまま市井の文化人として生涯を送る、そう決意した直弼ですが

運命は劇的な展開を用意していました。

井伊直弼32歳の時、兄であり彦根藩主の井伊直亮(いいなおあき)の後継者が死去したのです。

直亮には子がなく、急遽、たった一人売れ残っていた直弼が後継ぎになります。

さらに4年後には藩主の直亮も死去、1850年36歳で埋もれ木として人生を終るはずの

直弼は、徳川幕府の支柱、彦根藩35万石の藩主に就任したのです。

 

藩主になった直弼は、藩の蔵を開いて藩の年間予算に匹敵する15万両を領民に放出、

兄の時代の彦根藩の藩主独裁を廃して、伝統的な家老の合議による政治に戻し

能力のあるものは身分に関わらず登用したり、自ら領内を度々に巡回して

間接的に領民の声を聴くなど、善政を施し領民に慕われました。

後に、安政の大獄で処刑される吉田松陰(よしだしょういん)は彦根藩の善政を伝え聞き、兄宛ての手紙に

「井伊殿は民の心に寄り添える名君である」と賞賛を惜しんでいません。

 

井伊の赤鬼は、領民にとっては鬼どころか仏様だったのです。

 

 

そうなの?実は攘夷派だった井伊直弼

 

井伊直弼は徳川四天、井伊家の当主として幕府の政治にも関わります。

当時の幕府はペリーが持ってきた日米和親条約を締結するか追い払うかで

二分しており、大混乱していました。

 

直弼の考えは、藩校弘道館の教師であり儒学者、中川禄郎(なかがわろくろう)が提唱したもので、

「アメリカと実力差がある今、戦っても勝てないので一旦は国を開いて、

貿易をして富を蓄え、武力を増してから攘夷を行う」というものでした。

 

直弼は消極的な開国派で内心は攘夷だったわけです。

しかし、幕府には積極的な攘夷派である水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)がいて、

アメリカとの条約締結には、断固反対しました。

 

当時の幕府の責任者は、老中首座のイケメン、阿部正弘(あべまさひろ)でしたが

攘夷派の徳川斉昭と開国派の松平忠優(まつだいらただやす)松平乗全(まつだいらのりやす)、井伊直弼の対立を

うまくバランスさせる事が出来ず、まず日米和親条約を締結し開国派の要求を入れ、

次に、怒り狂う斉昭を宥める為に、斉昭が要求する松平忠優、松平乗全の

クビ要求を呑んでしまいます。

 

これが井伊直弼と徳川斉昭の最初の衝突ですが、この時に斉昭とやり合ったのは、

メインとして松平忠優と松平乗全で、井伊直弼はクビになりませんでした。

 

衝撃!日米修好通商条約を許可したのは井伊直弼ではなかった

 

開国派の二人をクビにした阿部正弘は逆に幕府内での孤立を深めます。

そこで、今度は阿部が責任を取る形で老中首座から降りて、代わりに開国派の

堀田正睦(ほったまさよし)を老中首座につける事で攘夷派と開国派のバランスを取り始めます。

 

「ね?僕は、反省して老中首座から降りて平老中になったよ、

だから水戸さんも荒れるのは勘弁してよね」

 

こんな感じでしょう、斉昭は不満でしたがゴネて阿部まで辞任すると

余計に不利になるので、渋々認めました。

しかし、この頃から阿部は体調を悪化させて江戸城に登城できなくなり

間もなく老中在任のまま死去してしまいます。

 

それを受けて堀田正睦は、かつて斉昭に放り出された松平忠優を復帰させます。

この頃、忠優は松平忠固(まつだいらただかた)と改名していました。

 

松平忠固は、開国派ではありましたが、朝廷の許可など必要ない、

すべては従来通り幕府の独断で決定すべきというスーパー反動派でした。

一方の堀田正睦は、朝廷の動向を気にする人間で「一応許可を得てくる」と

京都に上洛してしまいます。

 

忠固は、これで弱腰の堀田を見限り13代将軍家定の信用厚い井伊直弼を

臨時の職である大老に就任させる事に成功します。

そして、独断専行でアメリカとの日米修好通商条約をさっさと締結しようと

ドンドン行動を起こしていくのです。

 

ところが、井伊直弼も天皇の許可を得ない条約調印には反対でした。

 

忠固「馬鹿馬鹿しい!あんたまでそんな悠長な事をいうのか?

現実を知らない公家に許可を求めたところでいつまで経っても結論など出んわ!」

 

こうして、井伊が止めるのも聞かず忠固は日米修好通商条約を締結してしまいます。

そう独断で条約を結んだのは井伊直弼ではなく松平忠固だったのです。

 

大老としての顔を潰された井伊は怒り、政治上は反対の立場を取る松平慶永(まつだいらよしなが)

松平忠固と堀田正睦の追放に協力してくれるように願い出ます。

 

「あなたの援助を期待するしかない、伊賀守(忠固)は小身の身分の癖に

最近は、権威をかさに着て威張り放題、条約の事も独断で決定してしまい

朝廷を押さえつけている、言語道断のやりかたで許せない」

 

こうして、松平忠固と堀田正睦は排斥されました。

しかも、忠固は1859年の9月14日に49歳で急死したので日米修好通商条約

締結の責任は、すべて大老の井伊直弼に押し付けられるのです。

 

将軍後継者問題で再び徳川斉昭と対立!

 

天皇の許可を得ずに条約を締結した横暴な独裁者、

これは徳川斉昭にとって格好の攻撃材料になりました。

 

この頃、幕府内の開国か攘夷かの対立には、別の騒動の種が加わります。

 

それは13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)が病弱で子供もなく、いつ死去してもおかしくないという

幕府の体制が根本から揺らぎかねない危機でした。

しかも、次期将軍の選定については、二つの異なる派閥が対立します。

 

・血統を重視して現将軍家のルーツを継ぐ紀州藩主、徳川慶福(とくがわよしとみ)を担ぐ派閥()

・才能を重視し御三卿一橋家を継いだ水戸の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を担ぐ派閥()

 

血統だけでいくなら、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしのぶ)以来の血筋である紀州慶福が最適ですが

彼は12歳に過ぎず、困難な幕政の舵取りをすぐには期待できません。

一方、一橋慶喜は血筋は初代将軍の徳川家康(とくがわいえやす)まで遡り、非常に遠いのですが、

20歳で英明の誉れが高い人物で、能力からみると慶喜が適任でした。

 

さらに、もう一つ問題を複雑にしているのは、一橋慶喜を担ぐ派閥は、

親藩大名や外様大名など、これまで幕政に関与できなかった人々であり、

逆に徳川慶福を担ぐのは政治を牛耳ってきた譜代大名だった事です。

 

井伊直弼は、譜代大名の筆頭として徳川慶福を推していました。

真面目で誠実な直弼は、開国にしても攘夷にしてもそれは幕府が主体になり

今まで通りに譜代大名の合議で決めるものでした。

 

外様や親藩大名が血統を無視して一橋慶喜を将軍に担ぐなど直弼には、

250年続く幕藩体制への反逆でしかなく攘夷か開国かなど比較にならない

絶対に許す事は出来ない暴挙だったのです。

 

井伊直弼は、腹心の長野主膳を京都に派遣して徳川慶福に

将軍宣下が下りるように工作し、同時に大奥に働きかけて、大奥人気が

極端に低い、斉昭を中傷して強固な徳川慶福待望論を生み出します。

 

そして、天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を締結した井伊直弼を

糾弾すべく、江戸城に上ってきた徳川斉昭や松平慶永、徳川慶篤(とくがわよしあつ)徳川慶勝(とくがわよしかつ)

登城日ではない日に登城して無礼であるとして謹慎処分にしたのです。

 

そして、死去した徳川家定の遺言として徳川慶福を14代将軍に立てたのです。

独断での条約締結(直弼のせいじゃないですが)さらに、譜代大名の権力維持の為に

一橋慶喜を推す親藩や外様大名に厳罰を課した事は、尊攘派の志士に、

井伊直弼憎しの感情を決定的に増幅させる事になります。

 

真面目に誠実に勤めれば勤めるだけ、直弼は尊攘派の感情を逆なでし

井伊大老憎しの感情が募るという負のスパイラルに自ら陥ったのです。

 

【戊午の密勅】で直弼は赤鬼となり安政の大獄を引き起こす

 

尊攘派の勢力は、斉昭、慶喜、松平慶永、徳川慶勝などが軒並み謹慎処分を受けて

追い込まれ、京都で運動して朝廷から密勅を引きだす事に成功します。

それは、幕府ではなく水戸藩に呼びかける内容で、井伊大老の独裁を廃して、

幕府を改革する為に諸藩が協力して幕府に抗議せよという内容です。

 

これまで、朝廷は幕府とだけ勅書のやり取りをしていたのが、

直接、諸藩に勅書を下すようになったのです。

 

これは、政治は全て徳川に任せたという250年の不文律が吹っ飛びかねない

驚天動地の大事件になります。

もちろん、大老井伊直弼は激怒しました、彼が守るのは幕藩体制そのものであり

それが守られるなら開国も止む無しでしたが逆に、それが脅かされるなら、

例え僅かなヒビでも見逃す事は出来なかったのです。

 

「おのれ水戸!朝廷を動かし公儀の政治に横槍を入れるとは怪しからん」

 

直弼は、腹心の長野主膳を京都に派遣し、水戸派と通じている尊攘派の志士や

各地の藩士、学者、公卿に至るまでを徹底して調べ上げ逮捕します。

 

これが安政の大獄の始まりで、吉田松陰、橋本左内(はしもとさない)梅田雲浜(うめだうんびん)頼三樹三郎(らいみきさぶろう)

日下部伊三次(くさかべいさじ)、水戸藩家老、安島帯刀(あじまたてわき)などが死罪や切腹、幕臣でも水戸派に

近いと見られた、岩瀬忠震(いわせただなり)川路聖謨(かわじとしあきら)大久保一翁(おおくぼいちおう)永井尚志(ながいなおむね)などが

追放や左遷という処分を受け、公卿でも前関白、鷹司政道(たかつかさまさみち)や、

前内大臣、三条実万(さんじょうさねつむ)、左大臣、近衛忠煕(このえただひろ)などが辞職や謹慎、落飾などに追い込まれます。

極刑が8人、処分を受けたのは69名という大弾圧でした。

特に、首魁と見られた水戸斉昭は流石に切腹ではありませんが、

永蟄居(生涯謹慎)を申し渡され、完全に政治生命を絶たれました。

 

井伊直弼、桜田門外の変に倒れる

 

井伊直弼の水戸派への苛烈な処分に対して、水戸派も二つに分裂します。

元々、水戸藩は御三家の開設以来、幕臣でありながら水戸徳川家の家来になった

家老衆は幕府寄りで、逆に土着の下級藩士や学者は藩サイドについています。

 

家老衆は元々、将軍家の家来という意識が強く幕府の命令に絶対服従であるのに対し

勢いとして、下級藩士や学者は水戸光圀(みとみつくに)以来、尊王を説く水戸学に傾倒して

朝廷の命令を第一に考える風土が形成されていました。

 

今回の朝廷からの密勅に対しても「朝廷に返還しろ」という井伊の命令に従おうとする

恭順派と何としても密勅を奉じて井伊大老を倒すという尊皇派に分裂、

藩主の徳川慶篤は優柔不断な人物で、どっちも立てようとして紛争を激化させます。

 

ただ、永蟄居を申し渡された前藩主の斉昭は、さすがに大ダメージを受けて、

「もうよい、密勅は返上しよう」と弱気な発言をしたので、

尊皇派は、後ろ盾を失い完全に追い詰められてしまいました。

 

(もうだめだ、この上は井伊大老を殺して状況の変化を期待するしかない)

 

こうして、尊皇派でももっとも過激な一派が水戸を脱出し、それぞれ、

藩籍を抜いて浪人になった上で、1860年、旧3月3日、小雪降る中を

江戸城に登城しようとする井伊大老の駕籠を襲撃しました。

 

井伊直弼は、居合の達人でしたが、最初に駕籠に向けて発砲されたピストルで

腰を貫かれており、もう動く事が出来ません。

水戸藩の人員は駕籠かきも含めて60名はいたようですが襲撃に慌てふためき

半分以上が逃走、それ以外も次々に斬られていき、たった18名の刺客は、

ものの十数分で井伊大老を駕籠から引きずり出し首を刎ねたのです。

これが桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)でした。

白昼堂々の出来事は、大勢の見物人に目撃され幕府の情報統制も間に合わず

あっという間に全国に広がっていきました。

 

暗殺なのに病死という事にされた気の毒な井伊直弼

 

井伊大老の首を落としたのは、ただ一人薩摩藩から参加した有村次左衛門(ありむらじざえもん)

直弼の首を刀の先に突き刺して勝鬨(かちどき)を挙げますが昏倒していた彦根藩士の

小河原秀之丞(おがわらひでのじょう)が、それに気づいて背後から斬りかかり首を奪い返そうとします。

有村は後頭部に重傷を負い、歩行困難となったので、付近にあった若年寄、

遠藤胤統(えんどうたねのり)の屋敷に入り直弼の首を託すと庭先を借りて切腹しました。

白昼の大通りで、見るも恐ろしい首の奪い合いが展開されていたのです。

 

あわてふためいたのは幕府です、最高権力者の大老が18名の浪人者に討たれた

そんな事実を広めるわけにはいかないと、大急ぎで人を遣わして、

血で汚れた雪を回収し、死者や負傷者を現場からどかして何事もないように繕い

同時に、遠藤胤統(えんどうたねのり)に命じて井伊直弼の首を彦根藩に返還させました。

 

そして、医師を呼び出して一度切断された直弼の首と胴体を縫い合わせ、

布団を被せて、病気の為に臥せっていると発表したのです。

哀れ直弼、フランケンシュタインの怪物のような扱いにされました。

 

芝居は徹底していて、すでに死んでいる直弼に対し将軍家茂(いえもち)は、

高麗人参を送るなどして病気見舞いをしています。

それから、暫くして井伊直弼は病死した事にされたのです。

 

気の毒な最期ですが、どこまでも幕藩体制という世間を守ろうとした

井伊直弼には、似合わないではない最期にも見えます。

「咲きかけし 猛き心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」

これは、桜田門外の変に倒れる前日に直弼が詠んだ最後の言葉で

まるで自分の死を予言するような短歌です。

 

意味は、私の真意は死んでから後に理解されるだろうというもので、

井伊直弼もまた、激しい憎悪に取り巻かれていた事を物語ります。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

井伊直弼は、非常に聡明で誠実、領民の苦難にも理解がある名君でした。

若い頃に部屋住みで苦労したので、弱者の気持ちが分かる人だったのでしょう。

幕末の日本の状況についても、現時点での幕府の力を正確に理解し、

一度開国して西洋と盛んに貿易し、その富で軍備を増強して後に、

攘夷を決行するというのは、開明派とよばれた島津斉彬(しまづなりあきら)等と遜色ない考えです。

 

しかし、彼は250年続いた幕藩体制を崩壊させ、親藩や外様大名が、

幕府の政治に口を出す事は秩序を破壊する暴挙として断じて認めませんでした。

彼の考える世界とは譜代大名が今まで通りに幕府政治を牛耳る世界であり

それが維持されるなら、開国でも攘夷でも柔軟に対応しましたし、

西洋文明を導入する事にも理解がありましたが、それが維持されないなら、

何が何でも排除するという非常に頑迷で視野が狭い人物でした。

 

その意味で井伊直弼は、やってくる国民国家という押し返せない概念に

必死に抗い、最大の一撃を加えた反動政治家と言えるでしょう。

井伊直弼の墓は東京都世田谷区の豪徳寺にあります。

 

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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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