徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜は幕末崩れゆく幕府を支えるためある国と交流を深めていました。その国はフランスです。日本とフランスには接点がなさそうですよね。
しかし意外に接点はあるのです。なんと二つの国は互いに贈り物を送り合い親密な関係性を築いていました。今回は日本とフランスがどれほど深い関係性だったのかご紹介したいと思います。
この記事の目次
徳川慶喜へ軍服を送ったナポレオン三世
徳川慶喜は幕末一枚の写真が残っています。その写真とはフランス軍服を着ている写真です。どうして徳川幕府のトップがこんな物を持っているのか。それはフランスの皇帝・ナポレオン三世が徳川慶喜へ送ったからです。
ついでにこの軍服は慶喜の体にジャストフィットした特注品。さてここでまた一つ疑問が浮かびますね。どうしてナポレオン三世が慶喜に軍服を特注品で作って送ったのか。ナポレオン三世は慶喜が大好きで仕方なかったのでしょうか。
幕府と友好関係を結んで日本での利益の獲得を狙っていたから
ナポレオン三世は慶喜個人が好きで軍服をプレゼントしたわけではありません。ではどうして慶喜個人へ特注の軍服をプレゼントしたのか。それはフランスが日本で利益を獲得するために慶喜へ軍服を送ったのです。ナポレオン三世は慶喜個人が好きだったかは知りません。でもナポレオン三世がフランスの国家の利益の為、幕府のトップ慶喜と仲良くしようと考えていた事は間違えないでしょう。
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フランスが軍馬26頭を徳川慶喜へプレゼント
フランスは日本と友好関係を築いて国の利益を得るため、再びプレゼント攻撃を開始。今回ナポレオン三世が徳川幕府へ送ったプレゼントは26頭の軍馬です。なぜ軍馬を送ったのか。それは日本の馬とかけ合わせて品種改良の馬を日本で量産させるすタメです。しかしナポレオン三世はどうしてプレゼント攻撃を日本にしたのでしょうか。それにはこんな事情がありました。
ナポレオン三世が軍馬を送ったのは恩返しが目的!?
フランスはどうして日本に軍馬を送ったのか。それにはこんな事情がありました。フランスの国内産業の一つであった絹の生産源・カイコが病気になり、ほとんどが死滅してしまいます。カイコが死滅した為、フランスは絹を生産することができなくなり、生糸産業が壊滅的なダメージを負ってしまいます。しかしフランスの生糸産業を救ったヒーローが登場。それは徳川幕府の14代将軍・徳川家茂です。
彼はフランスの生糸産業が壊滅したことを知り、カイコの卵を産み付けた蚕種をフランスへ送ります。フランスは徳川幕府からもらった蚕種を研究し、フランスのカイコを全滅させた病原菌の耐性を持つカイコを作り出すのでした。こうした理由からナポレオン三世は日本へ恩返しをするため、軍馬を徳川慶喜へ送ったのです。ナポレオン三世のちょっといい話でした。
ナポレオン三世と徳川慶喜を結び付けた二代目駐日公使ロッシュ
フランスのナポレオン三世と日本の徳川幕府は持ちつ持たれつの関係性を気づいていきますが、まだまだ完全な信頼関係を気づいたわけではありません。
そんな中、フランスの新しい駐日公使が着任。この新しい駐日公使はロッシュさんと言います。徳川慶喜は幕府を支えるため色々な政策を実施。ロッシュさんは慶喜が色々な政策を実施するアドバイザーとして、慶喜へアドバイスをしていました。
またロッシュはフランス本国と日本が仲良くなるため、色々な事を行います。例えばフランスから幕府へ武器を売ったりお金を貸しています。またロッシュは幕府が保有している軍隊をフランス式の西洋軍を創設するための軍事顧問団を幕府へ派遣するようにナポレオン三世に要請。ナポレオン三世はロッシュの要請を受けて軍事顧問団を派遣します。ロッシュの働きにより徳川慶喜とナポレオン三世、幕府と日本の親密度を増していくことになります。そしてナポレオン三世は日本に野望を持つことになるのです。
ナポレオン三世の野望
ナポレオン三世の野望とは一体何でしょう。それは日本を植民地支配しようとしていた事です。なぜナポレオン三世はこのような野望を持ったのでしょうか。それはフランスがアジアの地域であまり植民地を持っていなかったからです。アジア最大の国土を持つ中国(清国)はイギリスが多くの植民地を持っていました。ナポレオン三世はイギリスに追従して戦争に参加し、植民地を持つことに成功します。しかしイギリスを超える大きな植民地を中国で持つことができませんでした。
そのためナポレオン三世は混乱している日本の幕府を援助することで、イギリスを追い越そうと画策します。ナポレオン三世は駐日公使・ロッシュから幕府を助けるよう要請されると幕府援助を行います。またナポレオン三世は戊辰戦争が始まった時、幕府からの要請があればいつでもお金や軍隊、武器を援助する用意をしていました。
幕府がフランスからの借り物で戊辰戦争に勝利すればすぐに金や軍隊を返すように要求し、この要求が通らなければ、日本を植民地もしくは日本の領土を割譲するよう考えていたようです。でも実際は慶喜が戊辰戦争を戦い抜くことをしないで、新政府と戦う意思が無い事を示します。その結果、ナポレオン三世の野望は砕け散ることになるのです。
もしナポレオン三世の援助を受けて幕府が戊辰戦争を戦えば、日本の領土はかなり減るか植民地支配されていたかもしれません。そうなれば今の日本が存在していなかったかもしれません。そしてナポレオン三世は日本を植民地支配した君主として、歴史に名を残していた事でしょう。このように考えるとナポレオン三世の野望が砕け散って良かったと思うのはレンだけでしょうか。
日本人とフランス人の熱い友情のお話
フランスと幕府は仲良くなっていきますが、幕府が無くなるとフランスは明治政府との関係を強めていきます。しかしフランス人の中には幕府を見捨ないで、反明治政府へ身を投じた人がいたのを知っていますか。そのフランス人はナポレオン三世が派遣した軍事顧問団達です。彼らは日本人の軍隊を近代化するため、武士で構成された幕府軍を監督していました。しかし鳥羽伏見の戦いで幕府は敗北し、フランス軍事顧問団達は江戸へ逃亡します。
その後フランス軍事顧問団の人達は反明治政府の勢力と一緒に明治政府軍と戦いを続けていきます。ナポレオン三世が派遣した軍事顧問団の一人・ブリュネさんは、新政府からフランスに帰りなさいと命令されます。しかしブリュネさんは新政府の命令を無視し、フランス公使館へフランス軍からの除隊を申請。
そしてブリュネさんは榎本武揚に従って北海道へ渡ります。ブリュネさんは北海道の函館に到着すると榎本武揚へ「toiタチ、新しい国作っチャイナよ」とアドバイス。
※toi(トゥワはフランス語で君)
榎本武揚はブリュネさんのアドバイスを受けて明治政府に対抗する国づくりを行います。しかし明治政府軍は函館の新しい国へ攻撃を開始。ブリュネさんは函館を守るため軍勢を指揮して戦いますが、函館に建設していた新国家軍が明治政府軍に敗北。ブリュネさんは函館に寄港していたフランスの船に乗って日本を離れることになるのです。なんだブリュネさんも結局逃げたんじゃんと思う人もいるかもしれません。しかし日本人でもなく自分が育った国でもなく、はっきり言って自分とはほとんど関係ないにも関わらず、幕府の最後まで見届けたブリュネさんの熱い心意気は見事だと思いませんか。
幕末ライター黒田レンの独り言
いかがでしたでしょうか。今回は徳川慶喜とフランスのナポレオン三世についてご紹介しました。日本とフランスじゃ国が遠すぎて関係ないように思いますが、意外にも深い関係があったのです。もしかしたら西郷どんでもブリュネさんやロッシュさん、ナポレオン三世が登場するかもしれません。西郷どんで登場する前にこれを読んで、徳川慶喜とナポレオン三世との関係を予習してみてはいかがでしょうか。
参考 吉川弘文館 徳川慶喜 家近芳樹著など
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