幕末に登場した老中・阿部正弘は今までの江戸幕府の老中にはない発想をもった存在でした。
江戸幕府が始まってから幕政に参加させたことのないどころか、
監視対象の「仮想敵」である外様の雄藩・薩摩藩を幕政の中枢に引きこもうとしました。
地味な感じがしますが、トンデモナイ革新的な考え方の持ち主です。
そして、そのような政治手腕を支えたのは大奥に大人気だったというのもあります。
ちなみに、寛政の改革の前に政治の中枢にあった、田沼意次もそうでした大奥に大人気でした。
そして、ふたりとも「イケメン」であったという言い伝えが残っています。
そこで、今回は阿部正弘がイケメンであったとして、その子孫はどうなっているのか?
その子孫もイケメンなのか?
と、そんなことに焦点を当てて調べてみました。
西郷どん:全記事一覧はこちら
関連記事:篤姫のお墓がある上野寛永寺ってどんな所?一般の墓と違う?
関連記事:大久保利通や西郷どんもビールを飲んだ!明治4年山口での文明開化
この記事の目次
イケメン老中首座阿部正弘の先祖は?
そもそも、地味ですよね。知っていますか?
老中首座(内閣首班)・阿部正弘という存在です。
阿部正弘は、幕末時代にかなり重要な活躍をした存在で、
明治維新の動きの起点を作りだしたともいえる
薩摩藩主・島津斉彬の幕府側の盟友とも言っていい存在です。
江戸幕府の中枢で老中になったのですから、当然名門です。
ただ、江戸幕府は、幕府の中で偉くなる大名は小藩に限っていたのです。
権力と経済力の両方を持たせることを、警戒する安全装置だったのでしょう。
水野忠邦などはそのため国高の少ない領地への転封を希望したと言いますから。
そして、阿部正弘は、当然名門です。徳川家康以来の家柄となります。
徳川家との繋がりは、徳川家康の祖父にあたる松平清康の家臣となってからです。
阿部家の後継者であった正勝は、今川家の人質となった家康と共にいました。
その後、関ヶ原の戦いで功績をあげ1万石の大名となり、大坂の陣で3万石に加増されます。
その後も順調に加増され、5代目、正邦のときに10万石の大名となったのです。
11代目の阿部正弘は、天保の改革で有名な水野忠邦失脚の後に老中となりました。
阿部正弘が藩主の備後福山藩はどんな藩?
福山藩は、今の広島県東部に位置する約10万石の領土を持っている藩です。
阿部家が福山藩を修めていた時代は、福山藩にとってはあまりいい時代ではなかったようです。
これは、幕政の中心で活躍しようとする大名に共通する傾向かもしれませんが、
領地経営に熱心ではないのです。安倍家も幕政への参加を狙い、そのための出費が多く、
年貢の取り立てが厳しく、一揆も多く、領地経営は今ひとつ上手くいっていませんでした。
ただし、教育には力を入れ阿部正弘は藩校「誠之館」を開くなどしています。
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
阿部正弘に直系子孫はいるの?
阿部正弘は25歳で老中となりました。篤之助、哲次郎、鋼蔵の子をなしましたが、
全て死んでしまい阿部家を継ぐことはありませんでした。
つまり男子直系の子孫はここで絶えています。
当時は、子どもが死ぬことは現代では考えられないほどに、あり得ることだったのです。
「はしか」ですら「命定め」と呼ばれ、
こどもは7歳までは「神様のもの」という考え方があったほどです。
医療、衛生も今とは問題ならないのです。それが老中であったとしても大差はありません。
そして、直系の子孫はいませんが、阿部家は断絶になったわけではないのです。
阿部正弘の甥である養子の正教が阿部家を継いでいます。
阿部正弘の女系の子孫はイケメン?
(画像:酒井忠正Wikipedia)
阿部正弘の男子直系の子孫は途絶えました。しかし、女系の子孫の血筋は続いています。
まず、阿部正弘の死後、阿部正教も子を成さず死亡します。
その後、阿部正方が阿部家の当主となり、彼が養子にした阿部正桓が阿部家を継ぐというように
男系はもう、血の継続など微塵もありません。
しかし、女系はしぶとく残っていました。
阿部正桓の妻には阿部正弘の6女になる寿子が正室に入ります。
彼女は39歳で亡くなりますが生前に、五姓田芳柳に肖像画を描かせています。
公家を思わせるような衣装を着た姿ですが、確かにネット上でもその絵は見ることが出来ます。
その肖像画からは、欠点を指摘するのがちょっと難しいくらいの美女に書かれています。
また、その血を引く息子には、正直、酒井忠正がいます。
安倍正直は1966年まで生きていますので写真もあるのですが、
ネットで確認したところ、それほどイケメンではないと思います。ただ知的な感じはあります。
酒井忠正の方は、ダンディという感じです。
イケメンという言葉の持つ爽やかさはないですが、顔のパーツは整った感じの方です。
現実に、両親が美男美女でも、生まれてくる子どもが、美形とは限らないのは、
遺伝の面白いところです。
ただ、肖像画ではありますが阿部寿子は、
かなりの美女であった可能性は高いのではないでしょうか。
現在まで阿部家は存続している?
阿部正弘の男系の子孫は絶えましたが、阿部家は今も存続しています。
阿部正弘、阿部正教、阿部正方が幕末期の阿部家の当主ですね。
そして明治以降は、阿部正桓、松平正義、阿部正直、阿部正道ときまして、
現在は阿部正紘氏が福山阿部家当主としてご存命です。
(社)霞会館資料展示委員会委員、福山誠之館東京同窓会名誉顧問の経歴をお持ちです。
大名家だった方は明治維新で華族となり、その家族も廃止されていますが、
今でも多くの家が残っています。お殿様同士の交流を行う組織もあるようです。
幕末ライター夜食の独り言
阿部正弘は非常に地味といいますか、
歴史マニアでなければ名前も出てこない存在かもしれません。
しかし、幕末の政治中枢に彼がいたことにより、
多くの人間が政治に参加できるという道筋が示されました。
その意味では非常に近代日本創りに貢献度の高い老中でした。
幕府の旧主派から見れば、とんでもない存在なわけですけど。
その血筋は絶えましたが、阿部家は今も残っているようです。
ちなみに、私の父の知り合いの左官屋さんには、「佐竹」という方がいたのですが、
その方も直系ではないにせよかなり大名に近い子孫だったようです。
かなり高貴な家格出身の子孫の人も現代では普通に生活しているのでしょう。
ちなみに徳川家の子孫で投手であった徳川家広氏は有名な政治学者でして、
私の愛読書と言いますが好きな本の「『豊かさ』の誕生」の翻訳者でありました。
この本を読んだのは、江戸幕府を早期(田沼時代)に改革するという
架空歴史小説の参考文献だったというもの、何とも皮肉な物だと思ったものです。
西郷どん:全記事一覧はこちら
関連記事:島津斉彬の性格のダークサイドを紹介!贋金作りで軍資金を造る裏斉彬
関連記事:橋本左内とはどんな人?西郷どんが生涯尊敬した越前の天才