阿部正弘と島津斉彬は本当に親友だったの?

2018年3月15日


 

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阿部正弘(あべまさひろ)島津斉彬(しまづなりあきら)はドラマやフィクションの中では親友であったとされることが多いです。

確かに政策面で利害が一致している部分が多かったのはありますが、

親友というよりは、「政治家としてのパートナー」と言った方が

言葉としては近いのではないでしょうか。

そもそも、幕府直参(じきさん)で名門出身の阿部正弘と、幕府の最大監視対象で

「仮想敵国」の薩摩藩は普通であれば、親しくなるはずがないのです。

 

しかし、幕末期にこのふたりが協力したのは事実です。

なぜ外様でしかも「仮想敵国」であるはずの薩摩藩の藩主・島津斉彬に阿部正弘は接近したのか、

そして島津斉彬にはどんな思惑があって幕府に接近したのか。

今回はその二人の関係を考察していきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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阿部正弘と島津斉彬はいつ頃出会った?

 

当時の日本には、頻繁(ひんぱん)に外国船が現れるようになりました。

阿部正弘が老中になったのはそんな時代です。そして、弱冠(じゃっかん)25歳で老中となります。

すでに外国船問題は幕府にとっても無視できない問題となっています。

そのころに、阿部正弘は島津斉彬に出会ったのでしょう。

 

阿部正弘は、海辺に面した大藩であれば、

以前からこのような事態を藩内で処理していたのではないかと考えたのです。

そこで、海辺の大藩で対外問題に積極的に取り組んでいた薩摩藩に目が行くのです。

幕府中枢にあった阿部正弘が外国船問題に対処するため動いた結果、

島津斉彬と出会うことになったとのです。

 

島津斉彬を薩摩藩主にしようと調所広郷追い落としを図る

(画 :調所広郷 Wikipedia)

 

阿部正弘としては政治的パートナーとして

島津斉彬に薩摩藩主になって欲しいという思惑がありました。

しかし、薩摩藩では、財政を立て直したばかりで、

ここで「蘭癖(らんぺき)」という評判の島津斉彬を藩主にすれば、再び財政が傾く危険もあります。

また、島津斉彬は積極的に琉球貿易の拡大を訴えていました。

 

※蘭癖:西洋文明に憧れ、それを積極的に取り入れる性格の事

 

そんなとき、幕府の老中であった阿部正弘は島津斉興(しまづなりおき)排除を計画します。

琉球の密貿易に関するネタで薩摩藩に揺さぶりをかけ、

藩主であった斉興を引退させようと画策したのです。

しかし、それは薩摩藩の財政を立て直した調所広郷(ずしょひろさと)が、ひとりで罪をかぶり切腹してしまいます。

結果、島津斉興排除は失敗し琉球貿易問題で、斉興、斉彬親子の対立は

更に先鋭化していってしまいました。阿部正弘、大失敗です。

 

 

【お由羅騒動】を利用し斉彬を藩主に擁立

 

島津斉彬が藩主になったのは、薩摩藩のお家騒動である「お由羅(ゆら)騒動」が露見し、

阿部正弘が将軍家慶に報告、幕府の仲裁(介入)という形で、

斉興を隠居させることに成功してからでした。

 

「お由羅騒動」は斉彬の腹違いの弟である久光(ひさみつ)を次期藩主にしようと

お由羅方を中心とした勢力が画策したものとされています。

当時の史料は今でも残っており、斉興、斉彬の親子で「呪殺」の文章をガンガン書いて

お互いを呪い殺そうとしていたようです。

 

ただ、元凶とされたお由羅方が、具体的に何かをしたという証拠はなく、

久光に至ってはその後、斉彬の路線を引き継ぎます。

「お由羅騒動」とは、島津藩内の斉興、斉彬の親子喧嘩であった可能性が高いのです。

阿部正弘はそれを上手く利用して介入したといえるでしょう。

 

阿部正弘がスムーズに日米和親条約を結べたのは島津斉彬のお陰

 

黒船ともに、ペリーが来航しますが、すでにその情報を江戸幕府は掴んでいました。

阿部正弘は対策のため、川越藩、彦根藩に浦賀の周辺警備を依頼し、

各所の意見を聞きますが、意見がバラバラでした。

そもそも長崎奉行は「デマ説」をとり、海岸防御御用掛は条約反対でした。

 

阿部正弘は朝廷や諸大名にも連絡をとり、対処方法を練りますが、

朝廷・公家はそもそも日本が「鎖国」しているのは

日本開闢(かいびゃく)以来の国是であると思い込んでいますので、

夷敵(いてき)を神州(日本)に入れるのは大反対です。

 

※日本開闢:日本が建国した時という意味

 

そんな中、近衛家(このえ)と親戚であった島津斉彬が朝廷・公家に対する工作をすることで

なんとか、強硬な攘夷論(じょういろん)を鎮めることに成功します。

しかし、阿部正弘が広く意見を求めてしまったことで、政治参加の気風が盛り上がってしまいます。

また、朝廷の存在感も強くなってしまうのです。

 

その結果、島津斉彬の死後、長州藩が京都を制圧すると一気に「攘夷」の機運が盛り上がり、

それを実行できない幕府は弱腰であるという批判が起きます。

その動きがやがて、討幕へとつながっていくのです。

 

実際、史実を検証すれば、江戸幕府は非常に粘り強く交渉し、

「日本人は手ごわい交渉相手だ」と相手に思わせてはいたのですが、

幕府の外交政策の再評価が始まったのはごく最近のことになります。

   

阿部正弘の死に際して島津斉彬が残した言葉

 

阿部正弘は39歳で亡くなりました。島津斉彬はその報を聞いて

「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」という言葉を残しています。

阿部正弘は、危機に際し広く意見を求めるというかつての幕府ではあり得ない方法をとりました。

 

その考えはある意味近代的であり、それにより幕府の敵であった薩摩と幕府が協調するという、

従来の幕府と、薩摩の関係ではあり得ない政治状況が生まれたのです。

もう少し、阿部正弘が健在であり、薩摩でも島津斉彬が急死しなかった場合、

幕府を組み込んでの明治維新、近代化という歴史の流れもあったかもしれません。

 

 

【大胆推理】2人が仲良くなった意外な理由、、どっちも胃腸が弱かった

 

「同病相哀れむ」という言葉がありますが、同じ病気を持っていると

結構意気投合してしまうことは、現代も出もあり得ます。

歳をとってくると、病気と健康の話題ばかりになって、それで盛り上がる様になるともいいます。

そして、阿部正弘も、島津津斉彬も胃腸が弱かったという持病があったのです。

そもそも、阿部正弘は消化器系の病気で若死にしています。

 

島津斉彬の死因も消化器系の病気であったという説もあります。

現在残っている写真ではかなりやせていますので、胃腸はあまり強くなかったのでしょう。

こういった、ふたりが「最近腹の調子が悪うござる」というような会話で盛り上がって

中が良かったという可能性もゼロではないかもしれません。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

阿部正弘は幕府の老中であり、まずは幕府、徳川家を維持することが第一目標です。

幕藩体制の政治とは究極的には、徳川家を未来永劫存在させるためのシステムです。

その中で、阿部正弘は対外問題で、広く意見を求めていきます。

これは、今から見れば正しい政策であろうし、批判されるべきものではないでしょう。

しかし、当時の幕府の旧守派からすれば、あり得ない暴挙です。

 

そして、政治に意見を言っても良いという気風は幕府の権威を相対的に低下させることでした。

井伊直弼はそれを理解し、幕府の権威を立て直すため「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と呼ばれる弾圧を実行します。

島津斉彬は優れた開明的な政治家であり、その存在の重要性は

明治維新の起点となった人物であると評してもいいくらいでしょう。

 

そして、このふたりの間に現代でいう友情があったのかどうか、それは分かりませんが、

ただお互いのその能力を高く評価していたことは確かであった言えるのではないでしょうか。

 

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