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【ざっくり解説】開国と攘夷って一体どういう思想なの?

2018年3月21日


 

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幕末(ばくまつ)の話は戦国に比べて人気が出にくいと言われています。

何故かと言うと、戦国が全国一律に天下を狙うという共通の目的があるのに対し

幕末は、攘夷(じょうい)開国(かいこく)という二つの対立軸があり、しかも、それが

コロコロと変わってしまうからです。

 

坂本龍馬(さかもとりょうま)は尊皇?新選組(しんせんぐみ)も尊皇、え?どっちも尊皇だよね。

なんで両方とも尊皇なのに殺し合いをしているの?」

 

こんな風に考えて、ちんぷんかんぷんになってしまい、

ドラマの内容が頭に入って来ないわけです。

そこで、はじめての三国志では、開国と攘夷と尊皇について解説し

幕末の対立軸をすっきりと理解できるようにしちゃいます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



そもそも幕末に登場する人々は全部尊皇派!

 

幕末の頃の人物の中で尊皇(そんのう)でない人は存在しません。

よく、尊皇派と佐幕派(さばくは)と言いますが、この二つは対立概念ではありません。

どちらも天皇を味方につけようとしただけで、殺そうとはしていないのです。

 

井伊直弼(いいなおすけ)から吉田松陰(よしだしょういん)のような草莽(そうもう)の志士まで、みんな尊皇です。

新選組も坂本龍馬も、みーんな尊皇であり違う点などありません。

そもそも、尊皇とは天皇を(とうと)ぶという意味で、当時の著名な人物で

天皇を尊ばない人などゼロと言って間違いないでしょう。

まず、その事を踏まえていて下さい。

 

尊皇派は開国と攘夷で分裂した!

 

このまま鎖国していれば、日本は尊皇派だけで平和でした。

しかし、ペリーがやってきて大砲を向け

「鎖国をやめて貿易しましょう」

軍事的な圧力を掛けてきたのです。

 

これに対して幕府は内心反対でしたが、黒船は強いので、

ペリーの言う通りにして開国してしまいます。

 

幕府のチキンぶりに対し、事情を知らない尊皇派の一派が怒り出しました。

「日本は天皇が治める神の国であるのに、幕府はどうして汚らわしい外国人の

言いなりになって開国してしまったのか!怪しからん」

 

ここで、現実主義に立ち開国してしまった幕府を代表とする「開国派(かいこくは)」と

無礼な外国人を追い払い天皇の国を守れとする「攘夷派(じょういは)」が出現します。

攘夷とは、夷(えびす:異民族)を攘(じょう:打ち払う)の意味です。

 

皆本心では攘夷だったので余計に相手を憎む

 

ここでのポイントは、西洋の圧力で内心は攘夷であった人が

やむを得ず開国になった事です。

彼らから見れば、現実を知らずに黒船を沈めろ、異人を斬れと叫ぶ攘夷派は

現実を知らない、責任感のない連中として憎悪の対象になります。

 

一方、攘夷派も外国の実力を知らないので開国派の人々を

天皇を大事に思っていない国賊であると軽蔑します。

今のようにテレビもネットもない時代ですから、

黒船の凄さは江戸にいた人以外には伝わらなかったのです。

現代なら、テレビやネット配信で一瞬で黒船の凄さが伝わるので

攘夷論などは起きなかったかも知れません。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

安政の大獄を契機に攘夷倒幕と佐幕開国が登場する

 

当初、攘夷を叫ぶ人々は、弱腰の幕府の尻を叩くだけでした。

当時の天皇も外国嫌いであり攘夷派は強い力を持ったのです。

これに危機意識を持ったのが、開国派の代表幕府でした。

 

徳川幕府は家康(いえやす)が幕府を開いて以来、250年外交も内政もすべて任すと

当時の天皇から委任状を受けていたのです。

つまり、独裁(どくさい)しちゃっていいよという事です。

 

しかし、幕府が頼りにならないと見た諸藩の志士は

京都の天皇に直接訴えて幕府の政治に口を挟もうとします。

250年続いた委任を取り消させようと言うのです。

これは、幕府の存在意義を揺るがす大事件でした。

 

(政治も外交も幕府が行うのだ!下っ端風情(したっぱふぜい)が天皇を使って政治に干渉すな!)

 

それに怒った幕府の大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、攘夷派の人々を次々に捕え

処刑したり謹慎にしたりします。

これが安政の大獄ですが、やりすぎたので井伊直弼も攘夷派が多かった

水戸藩の浪士達に暗殺されてしまったのです。

 

これで、攘夷派は

「幕府はダメだ、天皇を中心に俺達で外国を追い出そう」と考え

攘夷倒幕派(じょういとうばくは)に変化していきます。

 

それに対して開国派は、

「天皇を利用して幕府を倒そうとする連中を潰し幕府を助けよう」と考えて

開国佐幕派(かいこくさばくは)に変化していくのです。

佐幕とは幕府を佐(助ける)という意味になります。

 

まとめ1

 

①最初日本には尊皇の人しかいなかった。

②ペリーがやってきて武力で強引に開国させた。

尊皇の人の中で、現実主義で開国を選んだ幕府(尊皇開国派)と

何が何でも外国人を追い払えという人(尊皇攘夷派)が出現した。

 

③尊皇攘夷派の人は、幕府が攘夷をしないので、

外国嫌いの天皇にお願いして幕府に命令させようとした。

 

④尊皇開国派の幕府は、250年もの間、自分達で政治をしていたので

尊皇攘夷派が政治に口を出すのに怒り、

安政の大獄を起こして尊皇攘夷派を弾圧した。

 

⑤弾圧された尊皇攘夷派の人達は、弾圧を指揮した

大老井伊直弼を暗殺してしまった。

 

⑥尊皇攘夷の人は、幕府が自分達を弾圧したので

幕府を信じられなくなり、

天皇を頂点にして幕府を倒し新しい政府を造り

外国を追い払って攘夷しようと考えた。

 

⑦こうして、幕府を維持しようとする尊皇開国佐幕派と

幕府を倒そうとする尊皇攘夷倒幕派が生まれた。

 

 

 

天皇をどちらが握るか?で倒幕派と佐幕派は京都で激突

 

こうして、(尊皇)開国佐幕派と(尊皇)攘夷倒幕派は、

天皇の身柄を押さえようと京都に勢力を集中するようになります。

日本の頂点は天皇ですから、天皇を押さえた派が官軍になるのです。

特に井伊直弼が殺されてから、開国佐幕派は力が衰えたので

天皇に接近して権力を強くしようとします。

 

14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)孝明天皇(こうめいてんのう)の妹の和宮(かずのみや)の結婚がその例で

公武合体政策(こうぶがったいせいさく)と言います。

 

公とは天皇、武は幕府、この二つが結びつくから公武合体です。

しかし、幕府を倒したい勢力はこのような接近を阻止したいわけで、

特に攘夷倒幕派の長州藩(ちょうしゅうはん)などは天皇に説いて公武合体を進めるなら、

幕府に攘夷を決行させるべきだと運動します。

 

幕府は縁談が壊れる事を恐れて、出来もしない攘夷を受け入れます。

こうして、京都は攘夷倒幕派と開国佐幕派が入り乱れて、

テロなどが横行する物騒な雰囲気になりました。

 

ここで、登場するのが幕府により京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任命された

会津藩主(あいづはんしゅ)松平容保(まつだいらかたもり)とその配下に組み込まれた新選組です。

 

新選組は大半のメンバーが尊皇攘夷でしたが、

幕府に忠誠を誓う立場なので、渋々開国を容認しています。

なので、幕府を倒そうと考える尊皇攘夷の志士とは敵対関係でした。

 

まとめ2

 

①尊皇攘夷倒幕派と尊皇開国佐幕派は、それぞれが

天皇の権威を利用しようと京都に結集した。

 

②尊皇開国佐幕派(幕府)は将軍家と皇室の合体を進め

それに反発した尊皇攘夷倒幕派は、

京都でテロなどを起こして、尊皇開国佐幕派を攻撃する。

 

③尊皇開国佐幕派(幕府)は、会津藩の松平容保に

京都の治安を守らせるようになる。

その配下にあったのが新選組で、尊皇攘夷倒幕派の

志士を逮捕するなどして取り締まった。

 

 

 

西洋に敗れた事で攘夷倒幕派は攘夷を捨てる!

 

攘夷倒幕派は、幕府を倒して天皇を頂点に担いで

外国を追い払う攘夷を行うという理想を持っていました。

 

その代表的な藩が長州と薩摩でしたが、両藩とも外国と戦って敗北します。

これにより実体験で攘夷は無理だと悟った攘夷派は攘夷を捨てます。

かくして、彼らは開国倒幕派になり幕府とほぼ同じ思想に到達しました。

 

じゃあ、同じ思想になったから開国倒幕派は、

幕府と和解して仲良くなったのか?

いえいえ、それがそう単純ではなかったのです。

 

開国倒幕派は、幕府がもう天皇を味方につけていないと

政権を維持できない程に弱体化している事を知っていました。

だから、攘夷だけを捨てて外国と盛んに貿易して武器を買い、

幕府を倒して日本を支配しようという開国倒幕になったのです。

 

※攘夷を捨てたと言っても、外国人を斬って()さ晴らしをするような

小攘夷(しょうじょうい)を捨てたのであって、開国して貿易を盛んにして富を蓄え、

それで軍備を整えてから外国の干渉を撥ねのけようとしたのです。

これを大攘夷(だいじょうい)といい、つまり独立主権の事です。

 

ここで、当初、日本を二分した攘夷と開国の対立は吹っ飛んでしまい

 

・天皇の権威を利用して日本を支配しつづけたい開国佐幕の幕府勢力

・天皇の権威を利用して幕府を倒し日本を支配したい開国倒幕勢力

二つの勢力に大きく二分される事になります。

 

この辺りからは、もう攘夷も天皇も関係なくなってしまい、

いかにして、天皇の身柄を押さえて相手を朝敵として滅ぼすかが

重大な焦点になります。

 

結局最後は、薩長同盟(さっちょうどうめい)を介して薩摩と長州が手を結んでしまい、

天皇を担いで幕府を倒してしまう形で明治維新が実現します。

 

一番最後には、開国倒幕派が勝利したのです。

 

まとめ3

 

①尊皇攘夷倒幕派の中心だった長州藩と薩摩藩は

外国と戦い敗北してしまい攘夷を捨ててしまう。

 

②逆に外国から武器を買って強くなる事を考えたので

思想も、尊皇開国倒幕になってしまう。

 

③ここで、尊皇開国佐幕派と尊皇開国倒幕派の思想は

「幕府を守るか?幕府を倒すか?」以外には、

ほとんど変わらないものになる。

 

④尊皇開国佐幕派(幕府)と尊皇開国倒幕派(薩長)は、

積極的に外国から武器を購入して鳥羽伏見で戦うけど

結果として天皇を握った尊皇開国倒幕派が官軍になり

尊皇開国佐幕派(幕府)を破り勝利し幕府は滅ぶ

 

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

攘夷と開国の思想の発生と変化について書いてみました。

 

どちらも尊皇だったのですが、外国を受け入れるか入れないかで

攘夷と開国の対立が発生し、天皇を担いで攘夷を行おうとする尊皇派と

開国を維持して幕府を守ろうと言う佐幕派が争うようになります。

 

しかし安政の大獄のせいで、攘夷派は倒幕を考えるようになって、

それぞれが京都で、天皇の取り合いを開始します。

 

そして、外国と戦い敗北して攘夷を捨てた薩摩と長州の開国倒幕派が

開国佐幕派を打倒して起こしたのが明治維新(めいじいしん)なのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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