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徳川家定はどんな人?障害を乗り越え必死に頑張った13代将軍の素顔

2018年3月24日


 

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篤姫(あつひめ)が輿入れした将軍として有名なのが13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)です。

2008年の大河ドラマ、篤姫では堺雅人(さかいまさと)さんが演じて実は暗愚を演じていた将軍と

キャラづけされましたが、それ以前は暗愚な殿様として散々な扱いでした。

何より、明治維新(めいじいしん)をリードした水戸派の大名に辛辣に評価された事で

バカ殿の烙印を押された徳川家定、しかし、それは真実なのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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脳性麻痺と天然痘、病気に苦しめられた病弱な将軍

 

徳川家定は1824年、12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)の4男として江戸城で生まれます。

父の家慶はオットセイ将軍と言われた11代(いえなり)程ではないにしても

14男13女を儲けた子沢山でしたが、子供達は夭折が多く特に男子は、

家定を除いて、皆夭折してしまっていました。

 

しかし、たった一人残った家定も健康とは言い難い体でした。

幼少時に天然痘(てんねんとう)を患い、目のあたりに(あざ)が残っただけならず脳性麻痺(のうせいまひ)も患い

目や口がひきつったり痙攣(けいれん)したりした事があったそうです。

また、言葉を発する時には、頭を大きく後方に反らし、

足を踏み鳴らしてからでないと喋れなかったとも言います。

 

そのような事から、家定の動きや発言に陰口を叩く人間もいて、

深く傷ついた家定は内向的になり、気を許した人間にしか心を開かなくなります。

少年期には、乳母(うば)歌橋(うたはし)にしか心を開かなかったそうです。

 

そんな息子を見た家慶は、将軍職を息子に譲る事に不安を覚え、

水戸藩の徳川斉昭(とくがわなりあき)の七男で聡明の誉れ高い七郎麻呂(しちろうまろ)を養子に迎えて、

将軍にしようと画策して、老中阿部正弘(あべまさひろ)の反対で断念しています。

 

この七郎麻呂こそ後の徳川慶喜なのですが、将軍後継者問題は、

本当はこの頃から発生していたと言えるかも知れません。

 

ペリー来航により父、家慶が死去、家定13代将軍に就任

 

1853年、最悪のタイミングでアメリカ東インド艦隊を率いてペリーが

「国ヲヒラキナサーイ、イイジャナイノー、ヘルモンジャナシ」とやってきます。

江戸幕府、250年の太平を揺るがす大事件に病弱だった家慶も死去します。

死因は暑気当たりだそうですが国難に体が耐えられなかったようです。

 

こうして、1853年、7月27日、父よりさらに病弱な家定が29歳で将軍に就任しました。

いかに飾りとはいえ、毎回の会議に引きずり出され多くの家来の視線に曝され

内向的な家定の容態はさらに悪化していきました。

よく病気で寝込んだ家定には、満足に政務は取れず、政治は老中首座の、

阿部正弘が引き続き切り回していく事になります。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

体が丈夫なヨメが欲しい・・薩摩の姫を求めた家定

 

家定には、健康面以外にも問題がありました、子供がいない事です。

1842年に公家の娘で正室の鷹司任子(たかつかさあつこ)を迎えますが、子供がないまま

1848年に天然痘で死亡、次に迎えた一条秀子(いちじょうひでこ)は、1850年に結婚半年で、

火傷がもとで発病し急死しました。

 

こんな事例が二度も続いたので、家定も大奥も、

「容姿はそこそこでいいから、頑丈で死なない姫が欲しい」と思うようになり

島津斉興(しまづなりおき)と相談して決めたのが篤姫の輿入れでした。

 

これには前例があり、11代将軍家斉の正室が島津重豪(しまづしげひで)の娘の茂姫(しげひめ)でした。

茂姫自身の子は夭折したり流産したりして成人しませんでしたが、

オットセイ将軍、家斉の子は、すべて茂姫の養育という形になるので、

子孫繁栄のシンボルとして薩摩からの姫は好まれたそうです。

 

家定と篤姫の仲はどうだった?

 

家定は、容姿のコンプレックスから大奥に通う事もあまりなかったようで

側室としては堀俊邦(ほりとしくに)の娘とされる志賀(しが)の方がいて、唯一の寵愛(ちょうあい)を受けます。

ただ、志賀の方との間にも、子供は出来なかったそうです。

 

篤姫との仲については、確たる逸話は残っていませんが、

家定が犬嫌いと聞いた篤姫が、それまで飼っていた犬を手放し

猫に代えたというような話が残っています。

 

二人との間には、ついに子供が出来ませんでしたが、

僅か二年余りの結婚生活なのに、篤姫が薩摩に帰らず最後まで徳川家に残ったのは

家定との結婚生活に、なんらかの実りがあったからだと思えます。

   

徳川家定は本当に暗愚だったのか?

 

そもそも、徳川家定は暗愚だったのでしょうか?

実は家定の評価を残しているのは、概ね家定に批判的な水戸派の人々です。

徳川斉昭は、家定は部下の意見を理解できなかったとしています。

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は、「凡愚(ぼんぐ)の中でももっとも下等」と酷評していました。

 

しかし、一方で幕臣の朝比奈昌広(あさひなまさひろ)は明治時代に入ってから、

「凡愚だの暗君だの言われるが、それは斉彬公や春嶽公と比較するからであり

三百諸侯で比べてみれば、家定公に劣る人も当然いただろう」

と述懐しています。

 

家定はアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと江戸城で会見しましたが、

その時には言語を発するまでには、足踏みしたり、頭を反らすような

脳性麻痺の症状があったものの、その後の発言は堂々としたもので、

ハリスも感心しているものでした。

 

また、家定の趣味はお菓子作りで、芋を蒸かしたり豆を煮たりするほかに

饅頭や黒糖カステラのような手の込んだお菓子も作っています。

料理は、幾つかの作業を同時に行わないとならず脳を複合的に使用するので

一定の機能が確保されていないと難しいものなのです。

 

時には、自分が蒸かした芋を家臣に振る舞ったりしたそうですが、

それでついたあだ名がイモ公方(くぼう)だそうです。

ひどい、どんだけ家定につらく当たるんだよ。

 

※公方:将軍の別称

 

それに、家定は引っ込み思案で人に心を開きませんでしたが、

気心が知れた側近とは政治の話も行い、自分の考えも持っていました。

 

ただ、そのような家定の内心は外にいる人には分からず、

見た目だけの印象だけが伝わり、知能にも問題があるのだと思い込まれた

このような事ではないでしょうか?

 

本当の家定は障害に苦しみながら、自分なりに必死に生きていた

偉大な平凡人だったのだとkawausoは思います。

 

家定の情け深い一面

 

家定の凡愚エピソードには、病床にある家慶のお(かゆ)に指を突っ込んで、

温度を測ったという話があります。

 

「指を突っ込まなくても、椀から伝わる熱で分かるだろうバカなヤツ」

という批判でなのですが、これは、家定の優しさではないかと思えます。

 

病床にある父に、熱いお粥は胃の負担になると考えた家定が、

お粥に指を突っ込み、それが人肌の温度である事を確かめたのでしょう。

哺乳瓶のミルクも、手で触っても大丈夫な程度まで覚ましてから

赤ちゃんには飲ませますからね。

 

ここまで細やかに気を配れる家定は、本当は心の優しい人であった

本当は、そういう逸話ではないでしょうか?

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

徳川家定が、自分の後継者に慶喜ではなく徳川慶福(とくがわよしとみ)を選んだのは、

大奥からの水戸派への悪口だけでなく、慶喜がイケメンだからという説もあります。

容姿にコンプレックスがあった家定らしい話ではありますが、

好き嫌い説が本当なら、水戸派がいくら頑張ろうが慶喜が将軍になる可能性は

全く無かったというアイタタな結果になったわけですね。

 

家定の死因は毒殺から、コレラへの罹患、脚気(かっけ)の悪化による心臓麻痺等です。

水戸派と南紀派による将軍後継者争いの頂点で死んだ事で毒殺が疑われるように

なったわけですが、真実は分からないままです。

 

NHK大河では、芥川賞作家のピース又吉さんが演じる徳川家定ですが、

どんなキャラクターになるでしょうか?

 

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ガンバレ徳川

 
 

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kawauso編集長です。 はじ三の中の人です。 様々なトピックを立てますが 盛り上がらない時には ごめんね。 大体、咬まないので 気軽にからんでもらえると 嬉しいです。

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