この記事では、安政の大獄で処刑された橋本左内について取り上げます。
橋本左内と言えば、幕末に詳しい人であれば知っている人は多いと思いますが、
大河ドラマでは脇役であまり目立たないのであまり知名度は高くないかもしれません。
高校時代、日本史を勉強した人の中には難関大学の受験で勉強したという人がいるかもしれません。
日本史の教科書では、橋本左内は太字になっていないか
脚注の細字になっていることが多くあまり注目されませんが、
橋本左内の人生と書籍について取り上げます。
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この記事の目次
橋本左内の人生とは?
橋本左内は1834年に越前国の福井藩で生まれました。
15歳のときに大坂に出て、適塾の緒方洪庵から蘭方医学を学びます。
適塾で梅田雲浜(小浜藩)・横井小楠(熊本藩)らと交流したほかに
江戸では、藤田東湖(水戸藩)・西郷隆盛(薩摩藩)とも交わっていました。
適塾で学んだことで、その才能が福井藩主の松平春嶽に認められ、
側近として登用され、藩医と藩校・明道館学監心得になりました。
側近として登用されると、西洋化と幕政改革に尽力を尽くし、
適塾で交流のあった西郷隆盛らと14代将軍に徳川慶喜を擁立するように奔走します。
1859年、大老井伊直弼による安政の大獄が始まり、
福井藩主・松平春嶽は蟄居謹慎処分となり、橋本左内は捕らえられます。
将軍継嗣問題に介入した罪を問われ、死罪となりました。
橋本左内が15歳のときに書いた書籍、啓発録
橋本左内の才能が注目されるようになったのは
著書『啓発録』であると考えられます。啓発録の主な内容は次の5項目です。
・稚心を去る…立派な武士になるために親に頼るような幼い心を捨てること。
・気を振るう…士気を鼓舞して、人に負けないように努力するという決意を忘れないこと。
・志を立つ…生き方を決めること。自己を省みて、
自分の足らない部分を補う努力をする子が大切であるということです。
・学に勉(つと)む…優れた人物の行いを習い、自ら実行すること。
・交友を択ぶ…より良い交流をすること。
橋本左内の啓発録の評価は次節で取り上げます。
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
早熟の天才橋本左内は同時代人にどう評価された?
2節の「橋本左内が15歳のときに書いた書籍、啓発録」では主な内容についてまとめました。
幼いころから橋本左内は聡明であると評判であったと言われています。
15歳で『啓発録』を執筆した頃から神童であったということが言えます。
現在ではビジネス書としても注目されているので天才であることは間違いないと言えます。
当時の人々は橋本左内をどのように評価したのか気になると思います。
ここでは、当時適塾の塾長だった緒方洪庵の記録を取り上げます。
緒方洪庵は橋本左内を「池中の蚊竜」と呼びます。この言葉は『三国志』の中にある言葉で、
これから世に出るのを楽しみにしているという意味が込められていたと言われています。
決して攘夷派でなかった左内はどうして斬首された?
橋本左内は一橋派ということで攘夷派と見なされていますが、
実際は攘夷派ではありません。
はじめに橋本左内の幕政改革について取り上げます。
将軍を徳川慶喜にし、幕藩体制を従来通り維持します。
西洋の技術を積極的に取り入れることで欧米列強に対抗しようというのが狙いです。
次に、安政の大獄でなぜ処刑された理由について考えます。
安政の大獄は将軍継嗣問題で一橋派を弾圧したことです。
橋本左内は開国という点で井伊直弼と一致していたと言えますが、
次期将軍として徳川慶喜を推したことで処刑されました。
三国志の周瑜に例えられた神童左内の合理的すぎる性格
ここでは橋本左内の変わった性格に関するエピソードについて取り上げます。
あるとき、友人が負傷しました。左内は友人の怪我を見て、怪我をした部分を焼こうとします。
焼こうとした理由は火傷の治療法を知っているからということでした。
怪我をした部分を焼くという発想は合理的かもしれませんが、
そのような発想は誰も持たないと思います。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
橋本左内はこれまでの大河ドラマでは脇役であまり登場することがなかったのですが、
2018年の大河ドラマ『西郷どん』では、橋本左内が謎の蘭方医として登場し、
その後密偵として西郷隆盛に会います。その時に島津斉彬の狙いを言います。
今後、あまり注目されてこなかった橋本左内に注目したいと思います。
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