松平春嶽はどんな人?人をなだめてばかりの幕末の調停者

2018年3月26日


 

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松平春嶽(まつだいらしゅんがく)幕末四賢侯(ばくまつしけんこう)に数えられる名君として知られています。

ただの名君ではなく、海外の政治体制や科学技術にも関心がある開明派です。

ところが、そんな名君にも関わらず、松平春嶽は地味です。

あの幕末のスター、坂本龍馬(さかもとりょうま)とも縁があるのに全然メジャーじゃありません。

そこには良識派だけに、一方に突っ走る事が出来ない中道の人のジレンマがありました。

今回は他人を調停してばかりで幕末が終わってしまった松平春嶽のお話です。

 

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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



父には羊と呼ばれた学問好きな聡明な少年

 

松平春嶽は1828年、田安徳川家の三代当主徳川斉匡(とくがわなりまさ)の8男として江戸で生まれます。

幼名は錦之介(きんのすけ)、元服してからは慶永(よしなが)という名前なのですが、

号の春嶽が有名なのでこの記事でも春嶽で通します。

 

父、斉匡の兄弟には、11代将軍の徳川家(とくがわいえなり)がいるので春嶽は12代将軍の

徳川家慶(とくがわいえよし)の従兄弟に当たる将軍家の縁戚という事になります。

 

春嶽は子供の頃から聡明で非常に学問が好きな人であり書物をして

膨大な量の紙を消費したそうで、父からは「羊」と呼ばれたそうです。

 

春嶽は幼少の頃から、伊予松山藩主の松平勝善(まつだいらかつよし)の養子に行く事が決まっていましたが

福井藩主の松平斉善(まつだいらなりさわ)が急死すると、松平斉善とは兄弟に当たる徳川家慶の引きで

急遽(きゅうきょ)、春嶽は越前福井藩32万石を継ぐ事になります。

1838年なので、まだ春嶽は10歳でした。

 

大赤字の藩財政を改革し多くの人材を登用

 

しかし、それは殿様としてウキウキの人生の始まりではありません。

当時の福井藩は、多分に漏れず大赤字で、90万両の負債を抱えていました。

まあ、当時の薩摩藩の500万両の借金に比べれば大した事はないのですが、

それでも、現代から見れば900億円という借金は巨額です。

そのしわ寄せは農民に向かうので、一揆が頻発していました。

 

まだ10代の春嶽ですが、苦しい藩の状況をよく知っていました。

そして、「藩の窮地を救うためには自らが手本にならねば」と決意

藩主になった翌年の支度金の1000両を自ら願い出て500両に減額し、

食事も一汁一菜と漬物で済ます事を自らに課したのです。

 

10歳を過ぎたばかりの少年の決意とも思えませんが、

育ち盛りを空腹を我慢して耐える春嶽に、福井藩の藩士達は

感激の涙を隠す事が出来ませんでした。

 

「殿にこうまで不自由をお掛けするからには

我々は、藩の財政を立て直すその日まで、

一日、二日食わずとも文句は言えまいぞ!」

 

こうして、福井藩には、中根雪江(なかねゆきえ)由利公正(ゆりきみまさ)橋本左内(はしもとさない)

熊本藩士の横井小楠(よこいしょうなん)など、福井藩ばかりかその後の日本に

影響を与える人材が雲霞の如く集まってくるのです。

 

ガンバレ徳川

 

領民から春嶽さんと慕われた優しき藩主

 

16歳を迎えて政務を執れるようになった春嶽は福井藩に入ります。

当時の福井藩は、借金まみれにも関わらず上役が善くなく

藩の正確な状態が分からない状態だったので、春嶽は率先して

領内を廻り、領民と交流するようになりました。

 

ある時です、70歳の老婆と会話した春嶽は聞きました。

「そなたたちは、日頃、どのようなモノを食べているのか?」

 

「はい、菜雑炊(なぞうすい)稗団子(ひえだんご)で御座います」

 

試みに春嶽は、家臣たちと稗団子を食べてみましたが、

味など無いに等しく、とても不味(まず)いものでどうしても喉を通りません。

余りに厳しい国内の現実に春嶽は愕然とします。

 

「不味い稗団子を食べ、ろくに具も入らぬ菜雑炊を食べて

領民たちは重い年貢を納めている。

余は、何としても藩を立て直し領民たちに報いねばならぬ」

 

春嶽は何としても、財政改革して藩を立て直さねばならないと

堅く決意しました。

 

このような春嶽の真摯な態度は、領民にも伝わり、

明治以後も、春嶽さんと親しみを込めて呼んだそうです。

 

無駄を省き必要な手当を行う福井藩の財政改革

 

1847年、春嶽は気鋭の改革派、中根雪江をブレーンに迎えて改革に踏み切ります。

まずは、先代からの家老の松平主馬を辞任させ山県三郎兵衛(やまがたさぶろうべえ)に交替

これを合図に、事なかれ主義の無能な保守派を次々に更迭して

鈴木主税(すずきちから)村田氏寿(むらたうじとし)三岡八郎(みおかはちろう)(由利公正)のような若手の改革派を

どんどんと登用しました。

 

さらに誰にも文句を言わせない為に、春嶽自らが徹底的な倹約を開始、

供回りを最小限に抑え、着物も質素な木綿の着物しか着ないという

まさに身を切る改革を行います。

 

清貧を貫く若い藩主の姿を見た他藩の大名には、我が身を顧みて

恥ずかしくなり贅沢を改めた者まで居たという話です。

 

ただ、春嶽は何でもかんでもコストカットをしたわけでありません。

海岸線を持つ福井藩は外国船の出現も頻繁なので、西洋の技術を取り入れて

大砲や鉄砲を洋式に改めたり、猛威を振るった天然痘(てんねんとう)を抑える為に

種痘法(しゅとうほう)を導入して種痘館を置いてワクチン接種を行ったり、

また、悪名高い、藩の専売制を止めて特産品を不当に安い価格で

買い上げるのを禁止したりました。

 

さらに藩の発展のためには、人材の育成が肝要と藩校明道館を開き

当時、最新の学問だった蘭学を教えるなど実学も含めて、

有能な人材を輩出します。

   

私は無能である、虚心坦懐に進言を聞いた春嶽の名言

 

春嶽は常々、

「私は無能・無才であり何のアイデアもない愚物だから

優れた家臣の声を聴き、善いと感じた事に従うのだ」と言っていました。

こうして、耳の痛い事でも受け止め必要な手を打ったので

福井藩の財政は改善し、有能な人材は才能を伸ばす事が出来たのです。

 

藩主が耳の痛い事でも、咎められない藩風は自由闊達(かったつ)な議論の場であり

その魅力に惹かれて、熊本藩では(うと)まれ()れられなかった天下の奇才、

横井小楠(よこいしょうなん)も福井藩にやってきて藩政改革や政治指南として働いています。

(画:横井小楠 Wikipedia)

 

小楠という人は、当時としては、いえ、現在でも唖然とする程に

思考が柔軟な人物であり、いつでも手紙にはこう書いていました。

 

「私が本日、このように言うのは本日そう思っているからです。

しかし、明日の事は分かりません、もしかすると正反対の事を言うかも

知れません。それは、今日の私と明日の私では考えが違うからです」

 

このような小楠は真意を理解できない頭が固い人には変節漢(へんせつかん)に映り

喧嘩(けんか)したり、疎まれたりばかりだったのです。

 

阿部正弘に呼ばれ黒船来航の対策を練る

 

1853年、アメリカ東インド艦隊、司令長官のペリー提督が江戸湾の浦賀に出現

フィルモア大統領の親書(しんしょ)を手渡して開国を迫りました。

ここで、幕府のイケメン老中、阿部正弘(あべまさひろ)は前代未聞の判断を下します。

 

「黒船来ちゃったよ!日本はどうすればいい?朝まで討論会」を開催し

大名ばかりではなく、江戸の庶民にまで意見を求めたのです。

これを受けて、開明派(国防についてちゃんと知識がある大名)が招集され

島津斉彬(しまづなりあきら)徳川斉昭(とくがわなりあき)伊達宗城(だてむねなり)、松平春嶽のような面子が

オフィス江戸城に集まるのです。

 

実は、当初の春嶽は徳川斉昭同様に攘夷を唱えていましたが、

まずは開国して富を蓄えて攘夷すべきと考える横井小楠や、

老中阿部正弘の

「春嶽君、今すぐ攘夷なんて無謀だよ、力を蓄えてからでも遅くない!

・・・と薩摩の斉彬君が言ってたよ」という説得で開国派になりました。

 

阿部正弘は、抜群のバランス感覚を発揮、開国派の斉彬と、

攘夷派の斉昭を同じグループに入れて、国難を乗り越えるのに

まずは、病弱でいつ死ぬか分からない13代将軍、徳川家定(とくがわいえさだ)の後継者を

出してしまおうと考えだします。

 

阿部「ここは、英明の誉れ高い斉昭君の子の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を14代将軍にして

国難を回避すべきだ・・・と斉彬君が言えってうるさくて」

 

こんなわけで開明派の外様(とざま)親藩(しんぱん)大名の集まりは、攘夷(じょうい)か開国かは一旦置いて

一応、新しい将軍を水戸から出して自分達の意見が通りやすくしようと画策

 

将軍:一橋慶喜

国内事務宰相:徳川斉昭、島津斉彬、松平春嶽

外国事務宰相:鍋島直茂(なべしまなおもち)

官僚:川路聖謨(かわじとしあきら)永井尚志(ながいなおむね)岩瀬忠震(いわせただなり)

 

このような新体制のプランを考え出すに至ります。

 

井伊直弼に敗れ謹慎を申し付けられる

 

しかし、このような開明派の動きを苦々しく思う人々がいました。

阿部正弘が政治を解放する前まで、独占的に幕府の政治をしていた譜代大名です。

 

彼らは徳川家康(とくがわいえやす)が天下を取る前から仕えていた人々の子孫であり、石高は概ね

10万石以下ですが、代々、老中(ろうじゅう)若年寄(わかどしより)に就任して幕政を仕切っていました。

老中首座の阿部正弘も、そんな譜代大名で家康の祖父の清康(きよやす)の時代から

仕えているのですが、、何かの突然変異のようです。

 

(いかに有能でも将軍家の血筋から遠い慶喜などを将軍にしてたまるか

幕府の政治は、これからも我々譜代大名のものだ!)

 

その筆頭(ひっとう)が徳川四天、彦根藩主、井伊直弼(いいなおすけ)でした。

彼らは、紀州藩主で血筋も将軍家に近い、徳川慶福(とくがわよしとみ)を盛り立てて

水戸派と対立するようになります。

 

戦いは当初、有力な外様大名、島津斉彬や阿部正弘の力で水戸派が有利でしたが

大奥へのパワハラとセクハラ発言が酷すぎた徳川斉昭の存在がネックになり

どんどん紀州派に巻き返されてしまいます。

 

おまけにその途中で阿部正弘はストレスが祟ったのか急死、

さらに島津斉彬も薩摩に戻ってから急死してしまったのです。

その最中、井伊直弼は大老に就任、間もなく13代将軍家定が病死し、

14代将軍には、紀州の慶福が就任し徳川家茂(とくがわいえもち)になります。

 

さらに井伊直弼は、天皇の許しを待たずに日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を調印します。

これに対して、尊皇派でもある水戸斉昭や松平春嶽は井伊に抗議すべく

江戸城に登城しますが、それは許可を得ていない無断登城であるとして

井伊直弼によって謹慎処分を食らわされたのです。

 

しかし、収まらない徳川斉昭は、独自に朝廷のパイプを使い、

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を出させようと画策します。

これは天皇の命令で、やりすぎな井伊大老を引退させて、もう少し、

天皇と大名達の言う事を聞く幕府になりなさいという命令です。

 

ただ、朝廷が幕府を介さずに水戸藩に密勅を与えるのは、前代未聞であり

幕府の神経を逆なでし、安政の大獄(あんせいのたいごく)の引き金になります。

春嶽は部下の橋本左内が、将軍後継者問題で薩摩の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)と共闘していて

井伊直弼ににらまれ、左内は処刑され春嶽は蟄居を申し付けられます。

 

春嶽は江戸の霊岸邸に引きこもり、外界との文通や面会も禁止、

許されるのは健康の為の散歩だけでした。

これでは藩主としての活動も出来ないので隠居し、支藩である糸魚川藩主(いといがわはんしゅ)

松平茂昭(まつだいらもちあき)に家督を譲ってしまうのです。

 

島津久光の尽力で政界に復帰

 

ですが、やり過ぎた井伊大老もまた、1860年の旧3月3日に桜田門外で、

水戸藩浪人と神職、薩摩藩士達によって暗殺されます。

これにより、第二の桜田門外の変を恐れた幕府は、井伊大老に蟄居謹慎(ちっきょきんしん)させられた

人々の処分を軽くしていく事になります。

春嶽も謹慎はしていたものの、面会や手紙の往来などは大幅に緩和されます。

 

そして、1862年、薩摩から島津斉彬の異母弟(いぼてい)である島津久光(しまづひさみつ)が上京しました。

これも地味ですが大事件です、何しろ久光は幕府の許可を受けず無断で上京したのです。

一昔前なら、それだけで取り潰し間違いなしの暴挙ですが、井伊大老の死後、

すっかりテロに怯えた幕府は、江戸にやってきた久光を追い返す事も出来ず、

逆に久光が天皇の威光を背景に上から目線でもってきた幕政改革の意見書を受け取り

その大半を飲んでしまったのです。

 

その条件には、一橋慶喜を将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)(摂政の扱い)にする事、

さらに、松平春嶽を政事総裁職(せいじそうさいしょく)にすると書いていありました。

 

これこそ将軍後継者問題の時に島津斉彬達、水戸派が願っていた事でした。

まさに、島津久光は、異母兄島津斉彬の宿願を果たした事になります。

ま、五年遅れではあるのですが・・

 

政界に復帰した松平春嶽は、早速ブレーンである横井小楠と協議、

一橋慶喜や島津久光と意見を調整しつつ、

 

海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)の開設(責任者は勝海舟(かつかいしゅう)

参勤交代(さんきんこうたい)の日数緩和

・各地の大名を政事に参加させる

 

などの改革を断行していきます、これを文久(ぶんきゅう)の改革と言います。

しかし、幕府の巻き返しに尊攘派は危機意識を強め、京都では長州や

土佐藩の急進的な攘夷派が、天誅と称して幕府寄りの目明しや人物などを

斬り殺すテロが横行し始めていました。

 

ヒドイ!慶喜と共に松平容保にババを引かせる

 

本来、京都の守護は徳川四天王の彦根藩が担当していましたが、

桜田門外で井伊直弼が不名誉な死を遂げて、おまけにその後、罰として

幕府に十万石も石高を削られた井伊家は、これを拒否しました。

 

当時、京都は尊皇攘夷に(あら)ずば人に非ずという無政府状態、

さらに長州藩(ちょうしゅうはん)は藩を挙げて攘夷に傾いているという恐るべき事態であり

事を構えれば長州藩に恨まれる事は100%確実でした。

 

そんな危険な土地の取り締まりを引き受けようというモノ好き藩はなく

一橋慶喜も島津久光も松平春嶽も、人選に難航を続けました。

そこで、春嶽と慶喜が白羽の矢を立てたのが会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)です。

 

会津藩の開祖である保科正之(ほしなまさゆき)は、徳川家光(とくがわいえみつ)の異母弟でしたが、

誠実で学問好きな人柄であり、例外的に家光に好かれ、会津23万石の藩主にされ

その恩義から他藩とは比較にならない程の将軍家への忠誠と

将軍家に叛くような藩主なら私の子孫ではないから放り出してしまえという

なかなかドSな家訓を残していました。

 

頭が良い人は残酷な事をするもので、春嶽と慶喜は、保科正之の家訓を出せば

容保は断れまいと、執拗に京都守護職を受けるように命じるのです。

 

松平容保は生来病弱(せいらいびょうじゃく)、おまけに会津藩は、樺太(からふと)蝦夷(えぞ)や江戸湾、房総(ぼうそう)

防衛の任に藩士を出していて、財政は火の車、どうしてもお受け出来ぬと

頭を下げて懇願(こんがん)しますが、二人も必死ですから、保科正之の家訓をちらつかせ

 

聖上(おかみ)も、松平中将なら安心であると申されているのですぞ」

 

容保(そ、、そんな禁じ手まで使うのかぁぁぁ・・)

 

 

藩祖にも天皇にも逆らえない忠義な容保に、すでに辞退する道はなく

会津藩は戊辰戦争(ぼしんせんそう)の破滅へ続く、怒りのデスロードをひた走る事になります。

この会津藩の傘下にいたのが有名な新選組(しんせんぐみ)なのです。

 

 

将軍家茂に一緒に辞職しようと呼びかけ謹慎処分を食らう

 

島津久光、一橋慶喜、松平春嶽は、今や江戸を凌駕(りょうが)して政治の中心となった

京都に入る事になります。

 

治安の問題は日本一の兵と名高い、会津藩兵と新選組の活躍で鎮静化しつつ

ありましたが、当時の朝廷は土佐勤皇党(とさきんのうとう)や長州藩の過激な尊攘派に感化され

公武合体は成功したものの、「将軍は一刻も早く攘夷すべし」と現実を無視した

空理空論が飛び交うという有様でした。

 

そればかりではなく京都で活動している、松平春嶽や、島津久光等と

江戸の幕閣との間でも不協和音が激しくなります。

政治の主導権を握りたい朝廷の尊攘派と今まで通りに政治を続けたい江戸で

春嶽は板挟みになり、ついに政令帰一論(せいれい・きいつろん)を打ち出します。

 

これは、政治の決断を下す機関は、一つであるべきであり、

幕府がこれまで通りに命令を出すか?それが出来ないなら、

朝廷に政権を返すか、二つに一つであるという意見です。

 

幕府と朝廷がバラバラに命令を出す現状に憤慨した意見ですが、

この意見は、後の大政奉還(たいせいほうかん)に大きなヒントを与えます。

 

政治を収拾できない春嶽は責任を感じ、政事総裁職を辞任し

同時に、将軍家茂にも将軍職を辞職するように進言します。

 

「こんな事態になって、責任者がリスクを取らないわけにはいかん」という

春嶽らしい倫理感ですが、これが大問題になりました。

 

「臣下の分際で上様に辞職を強制するとは何事か!!」

 

こうして、春嶽は逼塞(ひっそく)(閉門し日中の出入り禁止)を申し付けられます。

この頃、京都での長州藩の横暴は目に余り、福井藩では横井小楠が

藩兵を率いて上洛し、長州藩兵を追い落として天皇を保護すべきと主張。

 

しかし穏健派(おんけんは)の春嶽には、例え天皇を守るという名目でも、

京都に兵を向ける事は驚天動地(きょうてんどうち)の出来事であり許可しませんでした。

 

1863年5月、春嶽の逼塞は解けますが、その年の8月には、

長州の横暴に憤る孝明天皇(こうめいてんのう)が長州藩を何とかするように

松平容保と一橋慶喜に命じ、島津久光、・松平容保、一橋慶喜が共謀して

兵を動かし、長州藩兵と尊攘派の公卿(くぎょう)七人を京都から追放する

八・一八の政変が発生したのです。

 

参預会議(さんよかいぎ)が慶喜にブチ壊される

 

不本意な形ではありますが、京都からは長州藩のような過激な攘夷派が一掃

いよいよ、春嶽が目指す能率的で実のある会議が出来るかと思えば、

ところが、どっこいそうはいきませんでした。

 

この時に開かれた参預会議には、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城

松平容保、島津久光、長岡護美(まつだいらもりよし)黒田慶賛(くろだよしすけ)の8人が参加しますが、

船頭多くして船山に登るで、意見の統一も出来ず会議は迷走します。

 

一番不味いのは、ここに来て慶喜が露骨に幕府寄りの姿勢を取り出した事で

参預会議を抑え込みに掛かろうと、絶対に不可能な横浜鎖港問題を持ち出し

諸侯をけん制するのに使ったのです。

 

慶喜はすでに自分に政治的な立場が近い、会津藩の松平容保と

桑名藩主の松平定敬(まつだいらさだたか)(容保の弟)を抱き込んで一桑会(いっそうかい)のグループを組み

幕府寄りの態度を取り権力拡大に邪魔な参預会議をぶち壊そうとしていました。

 

まあね、政変で邪魔な長州藩を追い払ったのは、会津と薩摩の藩兵、

それに自分だという自負が慶喜にはあり、逼塞して福井に籠っていた春嶽や

政変には関係していない諸侯が参預などとは、ちゃんちゃらオカシイと

そう思ったのかも知れません。

 

中川宮邸で横浜鎖港問題の会議が催された時の事です。

確信的に泥酔した慶喜は、久邇宮朝彦親王に

「あんたは老中から一体(いく)らもらったんだ?」と悪態をついたのを皮切りに

島津久光、松平春嶽、伊達宗城を指さして、

 

「え?いっちゃあなんですが、この3人は賢侯等とは真っ赤な偽り!

天下の大悪党、大バカ者ですぞ!将軍後見職の私と一緒にせんで頂きたい」

と罵詈雑言を浴びせました。

 

これに短気で礼儀正しい久光が不快感を催し、参預を辞任してしまいます。

かくして参預会議は慶喜の狙い通り空中分解するのでした。

 

四侯会議も慶喜がぶち壊し「もはやこれまで!」

 

時代は流れていきます、幕府寄りだった久光が薩摩に帰ると、

沖永良部(おきのえらぶ)から帰還した西郷隆盛(さいごうたかもり)が薩摩軍の総責任者として京都に乗り込みます。

それは、京を追い払われた長州勢が実力で天皇を奪い返そうとするのを阻止する為でした。

 

かくして、禁門の変(きんもんのへん)が起こり、長州勢は薩摩と会津藩兵の奮戦に敗れて敗退、

さらに、長州は攘夷決行の報復として馬関戦争(ばかんせんそう)で四か国艦隊の砲撃を受けて大打撃を受けます。

 

ここで、第一次長州征伐が起こり長州は戦わずして降伏しますが、この辺りから、

薩摩藩は幕府を見限り日和見を開始、長州で高杉晋作(たかすぎしんさく)が政変を起こして

幕府恭順派(きょうじゅんは)を倒すと中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と坂本龍馬の仲介で、

薩摩と長州は軍事同盟を結んでしまいます。

 

第二次長州征伐では、薩摩藩は幕府への協力を拒否、幕府軍の士気は最低で、

高杉晋作の奇兵隊に手も足を出ずに敗退を重ね、おまけに1866年8月29日には

大阪城で幕府軍の指揮を取る徳川家茂が21歳で死去しました。

 

これを受けて一橋慶喜が15代将軍に就任しますが倒幕に舵を切り始めた

薩摩と長州との闘争は激しくなる一方でした。

 

ただ、薩摩の島津久光は武力による倒幕には、なおも反対であり、

公武合体の路線を活かし、徳川慶喜と雄藩の大名とで国政を運営する

雄藩連合の望みをなお有していました。

 

そこで、西郷隆盛や大久保利通(おおくぼとしみち)を通して、元の参預だった

松平春嶽と伊達宗城、山内容堂を大坂に召集して四侯会議を発足させます。

これは、当時の最大懸案、長州藩の処分についてと、二年後に迫った

兵庫開港問題を解決する為の最高会議でした。

 

春嶽としては、慶喜を中心に雄藩が穏便に政治を行い幕府を残せるチャンスと

意気込むのですが、3年前の慶喜泥酔暴言事件で不信感がある久光と慶喜は

互いに睨みあう有様で、春嶽が必死に両者を宥めるも溝は埋まりません。

 

結局会議は、400万石の石高と鋭い弁舌を持つ慶喜の完全勝利に終わります。

久光は完全に慶喜に幻滅し、後を西郷と大久保に託して薩摩に帰りました。

西郷と大久保は、これを境に武力討伐に踏み切る決意をします。

 

「ああ、もはやこれまで、、幕府が元に戻る可能性は潰えた・・」

いくら調停しても報われない春嶽はガッカリしました。

 

大政奉還後の春嶽

 

失意の春嶽に朗報が舞い込んだのは、この頃でした。

勝海舟を通じて自分と面識もある坂本龍馬が大政奉還(たいせいほうかん)の秘策を土佐藩の

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に託し、それを見た慶喜が大乗り気になったのです。

 

大政奉還とは徳川家康以来、徳川家が握ってきた内政と外交の権利を

元々の日本の主である天皇に返還するという一大奇策でした。

これが出来れば、薩摩と長州は討幕の根拠を失います。

 

「戦争は回避され、政治の主体は朝廷に遷り、徳川家も諸藩も、

等しく天皇の臣下として政治に参加できるのではないか!」

 

最後の望みを抱いて春嶽は再び上京します。

大政奉還は慶喜の目論見通りに天皇に受理され、まもなく慶喜に返されます。

それも当然で建武の新政(けんむのしんせい)以来、530年政治から離れた朝廷には、

内政を行う組織もノウハウも、外交を行うスタッフも欠けていました。

 

慶喜は最初から、それを見越して大政奉還をしていました。

すべて計算づくだったのです。

 

しかし、西郷と大久保も黙ってはいませんクーデターを起こして、

朝廷から幕府寄りの公卿を追放して岩倉具視(いわくらともみ)を中心にして、

王政復古(おうせいふっこ)の大号令を下し、慶喜を新政権から排除した上に、

400万石の領地を返上せよと詰め寄ったのです。

 

これに対して、桑名藩や会津藩、それに幕府から猛抗議が起きます。

もちろん幕府を残したい春嶽も、「慶喜への処分が厳し過ぎる」と訴えます。

今回は、西郷や大久保の一方的なクーデターで大政奉還の反故ですから

諸藩の大名の目も薩摩に対して厳しいものでした。

 

春嶽は今日は幕臣を宥め、明日は会津を宥め、そして岩倉には、

寛大な処分を求めるなど、何とか戦争を回避して幕府を残そうと

必死になりました。

 

これに困ったのが西郷隆盛でした、切れ者の慶喜が政府に残り

400万石の力を駆使すれば、手も足も出ないのは学習済みです。

 

(越前公には申し訳なかが、幕府は何としても倒さねばないもはん)

 

西郷は、江戸の薩摩藩邸に不逞(ふてい)浪士を(かくま)い、火付け強盗殺人の事件を起こさせます。

当初は我慢していた幕府ですが、終には我慢できなくなり、薩摩藩邸を襲撃、

この話を聞いた大阪城の幕兵は気勢を上げ、京都の薩摩勢力を駆逐すると

慶喜を担いで進軍を開始したのです。

 

そして、進軍を阻止しようとする薩摩軍と、鳥羽伏見(とばふしみ)で衝突してしまいます。

天皇を擁している軍隊に発砲する事はどんな理由があれ、朝敵(ちょうてき)になる事を意味しました。

こうして、時代に抗えず徳川幕府は崩壊へと突き進みますが、春嶽は討幕に反対し

ついに新政府軍に組みしませんでした。

 

春嶽と按摩(あんま)のような名をつけて、上を揉んだり下を揉んだり

 

これは、何とか戦争を回避して幕府を存続させようと奔走する春嶽を見て

当時の江戸の町人達が詠んだ川柳ですが、必死に頑張った割に報われない春嶽でした。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

明治維新後の松平春嶽は、新政府の役職にも就き、民部卿(みんぶきょう)大蔵卿(おおくらきょう)になり

大学別当兼侍講(だいがくべっとう・けん・じこう)として、主に学制改革に当たりますが、ここでも

国学者と儒学者との対立、行政官と教官の対立を調停する事になり

心身共にすり減らし、1870年には全ての役職を辞任して隠居しました。

 

その後は著述業に専念して徳川時代の儀礼を記録した文献を残し

歴史学上の貢献もしています。

 

松平春嶽は、心情的に幕府の臣でしたが、過激の事はやらず、

常に穏健で穏便な政策を提言していましたが、大体、その時代の最も過激で

勢いがある勢力に押し切られる結末を繰り返しました。

 

春嶽の知見は幕末のTOPクラスでしたが、穏健派である事が災いし

知見的には劣る勢力の行動力の前に敗れ去ったのです。

 

松平春嶽は、1890年、明治23年に63歳で死去しました。

子孫には、4男で宮内大臣を務めた松平慶民(まつだいらよしたみ)がいます。

この慶民の子には、戦後に靖国神社(やすくにじんじゃ)の宮司となり、東京極東軍事裁判で処刑された

いわゆるA級戦犯を合祀した松平永芳がいるそうです。

 

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俺達尊攘派

 

 

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