徳川慶喜は会津藩をポイ捨てにした?


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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と言えば将軍に就任してから1年足らずで大政奉還をした人物で、

戊辰戦争の最初の戦争である鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦いでは敵前逃亡をしたヒドイ人物として評価されています。

特に、会津藩のファンにとっては慶喜をヒドイ人物として評価していると言われています。

 

しかし一方で、大政奉還をすることによって日本の近代化を進めることができたことから、

彼を高く評価する人もいます。

実際に大政奉還で新政府に移行できたことに貢献したことで、

慶喜の葬儀に多くの政府関係者が参列したと言われています。

 

この記事では、コロコロ変わる徳川慶喜の方針と会津戦争に至るまでの過程について取り上げます。

また、この記事を通して会津藩主だった松平容保(まつだいら かたもり)について評価します。

 

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徳川慶喜、会津に帰ろうとする松平容保を引き留める

 

徳川家茂(とくがわ いえもち)が14代将軍に就任すると、徳川慶喜が将軍後見職、

松平春嶽(まつだいら しゅんがく)が政事総裁職、松平容保が京都守護職にそれぞれ就任しました。

松平容保は病弱であったことや会津藩の財政が厳しくなることから、

京都守護職を辞退するつもりでしたが、

孝明天皇(こうめいてんのう)から真面目な性格を買われて就任することになりました。

 

14代将軍家茂が死去したことに伴い、徳川慶喜は孝明天皇の指名により15代将軍になりましたが、

15代将軍になってから孝明天皇が急死します。

孝明天皇の死去に伴い、松平容保は京都守護職を辞職して会津に帰ろうとしますが、

慶喜は引き留めます。

 

慶喜が引き留めた背景として次のことが考えられます。

幕末の京都の治安が悪く、攘夷派(じょういは)と幕府との抗争が起こり、毎日殺人事件が起こりました。

攘夷派を取り締まるために会津藩のもとに新選組が結成されます。

会津藩が引き上げると新選組がいなくなるため、

慶喜は攘夷派を取り締まれなくなることを恐れたことが考えられます。


鳥羽伏見の戦いで松平容保を道連れに敵前逃亡

 

大政奉還の慶喜の狙いは、朝廷に政治経験がないことから、

将軍職を返上しても政権内に残ることでした。

ところが、新政府に残ることはできたが、薩長から辞官納地を命じられるなど当初の目論見が外れ、

新政府の役職を解かれて去ることになりました。

このことに対して旧幕府軍が反発したことで戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まります

 

戊辰戦争の最初である鳥羽伏見の戦いで、

徳川慶喜は錦の御旗を見ると松平容保を道連れに敵前逃亡します。

敵前逃亡した理由として、

錦の御旗に攻撃をすると朝敵とみなされることを避けるためではないかと考えられています。

 

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徳川慶喜はあっさり降伏 会津藩に薩長の憎悪が集中する

 

夜の大坂城から船で江戸城まで逃亡し、慶喜は謹慎生活をすることで恭順の意思を示します。

この恭順の意思は徳川宗家が朝敵と見なされることを避けるためであったと言われています。

その後、謹慎生活を続けて徳川宗家の存続が認められました。

 

では、会津藩はどうなったのか。

薩長の怒りの憎悪が集中することになります。

新政府軍に対抗するために旧幕府側は奥羽越列藩同盟を結成します。

この列藩同盟による抵抗では、新潟県の長岡藩の河合継之助(かわい つぎのすけ)が有名です。

ガトリング砲による抵抗で新政府軍を苦しめました。

長岡藩を倒すと会津藩を除く東北地方の藩が次々と降伏し、会津藩に攻撃が集中します。

 

なぜ、新政府軍は会津藩に対する憎悪があったのか。

その要因として松平容保が京都守護職に就任していたときにあります。

京都守護職時代に新選組を結成して薩長の攘夷派を弾圧していたことが原因として考えられます。


苦しい?徳川慶喜の弁明

 

徳川慶喜は日本での内戦を避けるために戊辰戦争で降伏したと評価されています

慶喜は先見の明がある人で聡明であることからこの評価は妥当であると言えます。

 

一方で、日本での内戦を避けるためでなく徳川家を守るためだという評価も有力です。

大政奉還後も政権に残ることを狙いとしていましたが、

目論見が外れたため徳川宗家(とくがわそうけ)を守るという理由に変わった可能性も否定できません。

松平容保は幕府に忠誠を貫き、新政府軍に抵抗しますが、最終的に降伏します。

 

会津藩だった容保の動機について取り上げます。

2代目将軍徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の隠し子で、保科家(ほしなけ)に養子となった保科正之(ほしな まさゆき)が会津藩主となってから、

代々の藩主が幕府に忠誠を貫くようになります。代々の藩主の姓が保科から松平に変わります。

 

また、松平容保が真面目な性格で孝明天皇に信頼されていたことから、

孝明天皇から与えられた陣羽織を着て戦っていた写真も残っています。

容保の性格が真面目な原因で会津戦争を決断することに至った可能性が高いと考えられます。


  

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

最後に、会津戦争の会津藩の人たちについて取り上げます。

会津藩は会津戦争で降伏してから容保をはじめ謹慎生活を送ります。

その後、会津藩は斗南藩(となみはん)(現在の青森県の一部)として再興することになりましたが、

廃藩置県により無くなりました。

 

会津戦争で戦っていた人たちの中には女性がいました。

その女性の中でも新島八重が有名です。後に新島襄(にいじま じょう)と結婚し、同志社女子大学を創設します。

会津戦争では白虎隊の悲劇が有名です。白虎隊の中で生き残った山川健次郎(やまかわ けんじろう)がいました。

後に国費で留学し、物理学者として東大の教授になりました。

 

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