幕末の主役と言えば、徳川幕府、薩摩長州に代表される雄藩の藩士、脱藩して日本を股にかけて暗躍する志士など色々いますが、忘れてはいけないのは公家です。
「公家って、おじゃる丸みたいな恰好の顔を白く塗り眉を剃って額に墨で書いた変なオジサン達でしょう?」
まぁ、そうなんですけど天皇の取り巻きである彼らの力なくして倒幕なんか不可能でしたから、彼らには隠然たる力があったのです。今回は、そんな知られざる公家について解説しましょう。
この記事の目次
疑問1公家って何?
公家というのは、広義で言うと天皇に仕えている貴族全般を意味しています。平安末期に武士階級の平清盛が台頭するまでは、天皇の下で日本を支配していた人々です。
武家と公家はまるで無関係のように見えますが、実際は武士も天皇の家来で武力によって天皇に仕える武家貴族と定義され、一方で文官や文化面で天皇に仕える人々を公家貴族と言っているのです。狭義でいう公家は、御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄 従三位以上で公卿と呼ばれる家柄の人で堂上家と呼ばれ、昇殿を許されない地下家と区別されます。
疑問2公家には階級があるの?
奈良時代頃までは、公家は天皇との個人的な関係で地位が決まっていましたが平安中期に入り、藤原氏が摂関家として要職を独占するようになると、個人より家が重要視されるようになり、家柄によって概ね就ける地位が決定されます。それは以下の6段階に分かれます。
摂家・・藤原氏嫡流で、近衛、九条、一条、二条、鷹司の五家、五摂家とも言う
大納言、右大臣、左大臣を経て、摂政、関白、太政大臣まで昇進する。
清華家・・久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川、広幡、醍醐、
この九家を指し、大臣、大将を兼ねて太政大臣になれるが江戸時代には、
太政大臣は摂家のみに限られ、清華家は左大臣が極官だった。
大臣家・・元は清華家の庶流だった家柄で参議の地位を経て大臣に欠員が出た場合に
大納言から近衛大将を経ずに直接内大臣に昇進するが清華家と違い近衛大将と
兼任は出来ない。
一応、極官は太政大臣だが、江戸時代には右大臣になる事が稀にある程度だった。
正親町三条家、三条西家、中院家が該当した。
羽林家・・近衛少将、中将を兼ね参議から中納言、極官は大納言まで登る。
藤原北家閑院流、花山流、中御門流、御子左流、四条流、水無瀬流、高倉流
宇多源氏、村上源氏、等65家が該当する。
名家・・大納言を極官とするのは羽林家と同じだが、羽林家が近衛中将などの
武官職を進んでいくのに対し、名家は侍従や弁官のような文官職を経て大納言になる。
藤原北家日野流、勧修寺流、桓武平氏高棟王流で28家があり、
日野家、広橋家、烏丸家、柳原家、竹屋家、裏松家、甘露寺家、葉室家、勧修寺家、
万里小路家、清閑寺家、中御門家、坊城家の13家が特に十三名家と呼ばれる。
半家・・堂上家では最下層に位置し、源平藤橘も含めて、特殊な技能で天皇に仕えた。
官位については、羽林家、名家に準じて昇進し、一部の家は近衛中将や左右大弁を
経ないで大納言に昇るが公卿になっても非参議で終る事が多い。
藤原氏、清和源氏、宇多源氏、花山源氏、桓武平氏、菅原氏、清原氏、大中臣氏
卜部氏、安部氏、丹波氏、大江氏、等26家が該当する。
以上が堂上家で全体では137家がある事になります。
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疑問3 リッチな生活をしていたの?
公家というと優雅な動きで裕福に過ごしていたかのように思われますがそれは荘園などからの収入があった平安から室町時代頃までの話。江戸時代の公家は幕府から収入を与えられ、全体でも石高は10万石程度で特に中下流の公家では、苦しい生活をしていた人々もいたそうです。
幕末維新で有名な岩倉具視は、実家を賭場として貸して寺銭を得ていたと言われますし、大名に請われて書を書いたり大名家の美術品を鑑定したり宮中のしきたりを教えるなどで生計を立てていました。
天皇でさえ貧しさの例外ではなく、孝明天皇は晩のオカズの鮭の切り身を半分残して、晩酌用に当てていたと言われています。
これは幕府が意図的に行った事で朝廷にお金が集まって幕府に叛くのを警戒したためでしたが、中下級の公家の幕府への恨みは凄まじく攘夷うんぬんよりは、自分達を二百五十年も貧しく抑えつけた幕府への反感の方が上だったそうです。
疑問4 公家の武器は何?
公家には独特の処世術がありました、それは長いモノに積極的に巻かれるです。一部、姉小路公知や三条実美のように筋が通った骨のある公家もいましたが、大体の公家は、倒幕派が強い時には倒幕派に佐幕派が強い時には佐幕派にコロコロと鞍替えしていたのです。
柳のようにナヨナヨした彼らですが、その変わり身はとても早く、忠義一直線の武士では到底及ばないものでした。主体性がない事が彼らの主体性であり、だからこそ鎌倉時代以来何百年も滅ぼされる事なく生き残ってきたのです。
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