井伊直弼の家系図は豪華絢爛!


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井伊家といえば、徳川家康(とくがわ いえやす)の家臣で徳川四天王の一人と呼ばれた、

井伊直政(いい なおまさ)と幕末の大老井伊直弼(いい なおすけ)が挙げられます。

2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎(なおとら)』が放映されたため、

井伊直虎(いい なおとら)も知られるようになりました。

 

この記事では、井伊家の祖先から井伊直弼に至るまでの家系図について取り上げます。

最初に、井伊直弼について取り上げます。

次に、井伊家の初代井伊共保(いい ともやす)について取り上げます。

最後に、井伊直政について取り上げてから、

江戸幕府において歴代大老の半分を送り出した井伊家について取り上げます。

 

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井伊直弼はどんな人?

 

『井伊直弼は井伊直虎の子孫なのか?大河をまたいで続く井伊家』によれば、

彦根藩主井伊直中(いい なおなか)の14男として生まれました。

14男ということで、跡継ぎになる可能性がほとんどなく、

彦根城内の部屋住みとして32歳まで過ごしました。

部屋住みで何もすることがなかったため、国学・茶道・武術・能楽などに熱心に取り組み、

著書を残すなど文化人としての一面があります

 

直亮(なおあき)が直中の跡を継ぎましたが、直亮には子供がなく、部屋住みだった直弼を養子にしました。

このようにして井伊直弼は彦根藩主になりました。

 

彦根藩主になってから大老に就任します。ペリーが浦賀に来航して開国を主張し、

ハリスと日米修好通商条約を調印します。

強引に条約に調印したことや反対する勢力を弾圧した「安政の大獄(あんせいのたいごく)」の反発を受け、

1860年に桜田門外で暗殺されました


千年を遡る井伊家の初代は捨て子?

 

井伊家の祖先は1010年の遠江国(とおとうみのくに)(現在の静岡県)の井伊谷(いいのや)にあると言われています。

井伊谷にある龍潭寺(りゅうたんじ)の井戸が井伊家発祥となっています。

 

『井伊直弼には家紋が二つ?』によれば、井伊家の初代は共保で、

静岡県浜松市にある龍潭寺に捨てられていた子供でした。

住職が捨て子を保護し、育てたことから始まります。

 

捨てられていたのが龍潭寺の井戸の脇で、橘の木が生えていました。

このことから井伊家の家紋には井桁紋と橘紋の2種類あります

 

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大名としての井伊家の開祖、徳川四天王井伊直政

 

『井伊直弼と井伊直虎家督相続で苦労した二人の共通点』で、

幼い時の井伊直政について取り上げています。

井伊直政は父・井伊直親(いい なおちか)と母・奥山(おくやま)しのの二人の間に生まれます。

井伊直政が成人すれば跡を継ぐことになっていましたが、直親が今川氏真(いまがわ うじざね)に暗殺されました。

当時直政は幼かったため、女性の井伊直虎が還俗して跡を継ぐことになりました。

 

今川氏真は武田信玄(たけだ しんげん)との戦いが起こった際、再び幼い井伊直政の命を狙います。

直政は無事逃げることができましたが、井伊谷は今川家に乗っ取られました。

その後、母・しのは松下清景(まつした きよかげ)と再婚し、松下家の養子として過ごすことになったため、

井伊家は一時断絶しました。

 

1567年、徳川家康が今川領だった井伊谷を攻めて小野政次(おの まさつぐ)とその子供らを処刑します。

その時、家康は松下の養子に直政がいることを知り、取り立てられます。

以後、井伊谷の領地を与えられ、直政は井伊家の再興に成功しました。

後に徳川四天王の一人として活躍し、関ケ原の戦い後に初代彦根藩主になりましたが、

関ケ原の戦いでの鉄砲傷が原因で死亡しました。


譜代大名の筆頭として幕府政治をリードした名門井伊家

 

井伊家は遠江国の井伊谷の当主でしかなかったのですが、井伊直政の代で徳川家に仕え、

徳川四天王の一人として活躍します。

徳川四天王としての実績が評価され、江戸時代に彦根藩の藩主になりました。

 

以後、江戸幕府において12人の大老のうち半分が井伊家から輩出されました

初代将軍家康だけでなく、歴代の将軍から信頼されていたことが分かります。


  

 

名門として血統に拘る井伊直弼は名もなきテロリストに殺される

 

初代将軍家康から江戸幕府では譜代大名や親藩など、

徳川一門と古くから仕えている大名によって、政治が行われていました。

外様大名には幕府の政治に参加する資格がありませんでした

 

『井伊直弼と直虎の関係性は?直虎は先祖なの?』では、ペリーが来航したとき、

老中阿部正弘(あべ まさひろ)が困難を打開するために外様大名や朝廷にも広く意見を求めました。

政治に参加できなかった外様大名が政治に参加するようになり、幕府の権威が失墜していました。

 

井伊直弼が大老になった頃、幕府の権威を取り戻すために反対派の弾圧を始めました。

この反対派の一連の弾圧のことを安政の大獄といいます

 

13代目徳川家定(とくがわ いえさだ)は虚弱体質で、子供がいなかったため、

直弼は11代将軍家斉の孫で紀州藩主だった徳川慶福(とくがわ よしとみ)(のちの家茂(いえもち))を将軍にしました。

将軍を家茂にした理由として血統が挙げられます。

 

直弼は将軍の後継者を選ぶ際、血統に拘りましたが、

安政の大獄という弾圧の反動で脱藩した水戸藩士や下級の薩摩藩士によって暗殺されました。

 

井伊直弼の死後の井伊家

 

井伊直弼は桜田門外の変で倒れました。

暗殺の場合、跡継ぎを決めていなかったため、断絶となりますが、

幕府が病死を装ったため彦根藩と井伊家の存続が認められました。

 

直弼の後直憲(なおのり)が跡を継ぎますが、直憲は幕府を見限り、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で新政府軍につきます

直憲は伯爵家となり、井伊家は続きました。

 

戦後になると、井伊直愛(いい なおよし)が1953年から9期(36年間)彦根市長を務めました。

直愛の後、現在の当主である井伊岳夫(いい たけお)氏は彦根城博物館の館長として井伊家をPRしています。

現在も彦根に根差していることが分かります。

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は井伊直弼の家系図について取り上げました。

直弼の家系図は江戸幕府で大老を半分輩出していることからエリート意識が強かったと考えられます。

これまで譜代大名や親藩で政治を行ってきましたが、外様大名が政治に参加するようになりました。

 

井伊直弼は外様大名が政治に参加することが許せなくなり、

安政の大獄という弾圧を始めたのかもしれません。

安政の大獄の流れと直弼の動機との関連性について考えたいと思います。

 

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