高杉晋作というと、激動の幕末時代を破天荒、ある意味滅茶苦茶な勢いで駆け抜けた人物というイメージがあります。過激な幕末の志士のひとりとして、漫画などのフィクションでもそのような性格で描かれることが多いです。
確かに、高杉晋作は、破天荒で枠にはまらない性格をしていたいました。しかし、傍若無人で破天荒なだけの人物ではなく、長州藩のこと考え忠義にも厚く、両親に対し素直な一面を見せるなど、一言では言い表せない複雑な人物でもあります。今回は、高杉新作の短い生涯の中のエピソードを追いかけ、彼について考察していきます。
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【少年時代】凧を踏みつけて謝らずに行こうとした大人の武士を土下座させた
高杉晋作は、長州藩の上級武士の上に生まれます。幕末維新では、比較的藩の中では身分の低い人物が中心になって活躍した印象が強いですね。薩摩藩の西郷隆盛や、大久保利通も決して上級武士の家柄ではありませんでしたし、官軍を率いて実質的に旧幕府軍を軍事的に徹底的に敗北にさせる大村益次郎などは村医者出身です。そこへいくと、高杉晋作はいいとこのボンボンだったわけです。ちなみに桂小五郎(木戸孝允)は上級武士階層出身ですね。高杉晋作は身分の高い武士の家に生まれたからというわけではないでしょうが、幼少期から気の強い性格をしていたようです。
エピソードとして、子供のころ、遊んでいた凧が地面に落ちたときに、通りがかりの武士に踏まれたことがありました。子供であるにもかかわらず、高杉晋作は謝りもせず立ち去ろうとした大人の武士を呼びとめ、最終的に土下座までさせたと伝えられています。
基本的に、当時の武士は「儒教」を一般教養と学んでいて、孔子の教えの中に、砂遊びをして城を作っている子供に、荷車を通そうとした大人が邪魔だと文句を言う逸話があります。子供が城がよけて、車が城をよけないのはおかしいと反駁して、大人を納得させる有名な話があります。もしかしたら、一般教養としての子供であっても、相手が筋の通ったことを言えば、子供のいうことでも聞くという文化的な素養はあったかもしれません。意外に子供が大事にされていたのが江戸時代ですから。それでも、土下座までさせてしまう高杉晋作は規格外の子供だったのでしょう。
【青年時代】攘夷するんじゃ!英国公使館を焼き討ちする
長州藩はそもそも、攘夷思想の強い土地柄でしたがその中でも高杉晋作は飛び切りの攘夷論者でした。外国の情報をある程度把握できている人たち(幕府も含め)は、武力攘夷など不可能であることを理解していました。安全保障しようにも、背景となる彼我の軍事力が隔絶しています。その中で、現実論を選ぶ人たちもいたのですが、とにかく理念的、教条的に「攘夷」を実施すべきという思想に染まってく若者が多かったのが幕末です。
これに、頼りにならない幕府ではなく、天皇を尊び、国のあり方として天皇中心ではないかという考え方が結びついたものが「尊王攘夷」です。思想的にはよく並んでいますが、別に尊王でなく佐幕で攘夷もありえますし、尊王であっても攘夷は困難とする人もいました。
しかし、高杉晋作の青年時代は尖りまくった攘夷思想に固まった人物でした。長州藩のを中心に仲間63人を集め、英国公使館の焼き討ちを計画します。現代で言えば、非正規戦のテロを挑むようなものですね。そして、英国公使館に昔からあった古い武器といえる火薬の詰まった「焼玉式焼夷弾」を叩きこみ焼き討ちを成功させます。ただ、英国公使館は未完成であり、人がおらず死傷者はでませんでした。
しかし、こんな過激な人物を放置しておくことは、長州藩としても危ないと判断されます。長州藩は高杉晋作を長州へ召喚しますが、高杉晋作は頭を丸めて坊主になり藩に休暇届を出して、今回の英国公使館焼き討ち事件の責任問題をうやむやにしてしまうのです。
【成年時代】国民皆兵の先駆け奇兵隊を創設するが・・
高杉晋作といえば、まず「奇兵隊」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。あらゆる身分から兵を集め組織した騎兵隊は、身分制を崩し、国民皆兵の先駆けになったと評価もされています。しかし、実際は隊内には厳然たる身分の区別が存在しており、それは着ている服や軍則にも定められていました。そして、高杉晋作は、たった3ヶ月しか奇兵隊の総督の座にいられませんでした。
奇兵隊と長州藩の武士による正規軍である先鋒隊といざこざを起こし、奇兵隊の者が先鋒隊の者を斬ってしまします。この事件によって、高杉晋作は奇兵隊の総督の罷免されることになってしまうのです。
【成年時代】死刑相当の脱藩を5回もやった自由人
長州藩は公武合体による幕政の支援と武力攘夷を回避していた薩摩藩、会津藩の勢力により、京都から追放されます。これを「八月十八日の政変」といいます。このため長州藩内では武力による現状打開を行う勢力と、慎重に対応すべきだという勢力に別れ、藩論が割れてしまいます。高杉晋作は意外にもこれには、慎重派でした。そして武力解決を図ろうとしていた集団のリーダーである来島又兵衛への説得をしようとしますが、逆に「臆病者」と煽られます。この煽りに乗ってしまい、高杉晋作は「臆病じゃないことを見せましょう」ということで、藩の許可を得ることなく京都に向かいます。これは脱藩という当時とすれば、死罪に値することもある重罪です。
そのときの高杉晋作は投獄されますが、謹慎ということで済まされてます。長州藩の藩主が高杉晋作に甘いところがありました。彼は死罪になりかねない脱藩を5から6回も実施していますが、謹慎レベルで許されていました。
【成年時代】四か国連合艦隊に対して魔王の如く賠償金支払いを拒否
長州藩は実力で攘夷を実行します。外国船に対する砲撃を行い、それが原因でイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国連合艦隊の砲撃を受け、長州藩は惨敗します。この講和のため、高杉晋作は謹慎中であるにも拘らず、全権交渉を任されます。
相手との交渉では「魔王の如き傲然」だったと、幕末の日本で活躍したイギリスの外交官アーネスト・サトウが書き残しています。4カ国連合の出した賠償金を高杉晋作は拒否します。攘夷は幕府の命令にしたがっただけであり、その責任は命令を出した幕府にあるという主張を展開します。
形式的にせよ「攘夷」を命じていた幕府は、結局、4カ国連合の要求した300万ドルのうち150万ドルを支払うことになります。長州藩は、高杉新作の「魔王の如き」交渉で賠償金の支払いを逃れます。この賠償金の残りは後に明治政府が支払うことになりました。
【晩年】たった84名の賛同者と決起し藩政を奪還
高杉晋作は長州藩の攘夷の方針に基づき、藩政の主導権を握るため、決起します。藩内の融和派の反対を押しきり、馬関にある長州藩の会所を襲撃しそこを占領する計画を立てます。周囲は挙兵を反対する中で高杉晋作は84人しかいない賛同者とともに功山寺で挙兵します。この挙兵は死である吉田松陰の「死ぬ価値があると思えば、いつでも死ね」という教えを信じ、自分の信念で挙兵したものでした。
会所(今で言う中央銀行)は襲撃されますが、すでに藩の中枢部は、襲撃を予測しており、金を移動していました。結果として流血はありませんでしたが、金を奪うという目的は達成できなかったのです。それでも、高杉新作は藩内に檄文を送ることで、味方を増やし結果として藩内の保守勢力を説得することに成功します。高杉晋作は、藩政の主導権を奪還し長州藩を武力闘争路線へと向けていきます。
【最晩年】14億円の丙寅丸を無断で購入し第二次長州征伐に参戦
長州藩が武力闘争路線を採用し、薩摩藩から坂本龍馬の海援隊にによる輸送で最新の武器をそろえていきます。幕府はその動きを察知し第二次長州征討を実施します。このときに、幕府軍相手に上陸作戦をかく乱する作戦で戦った軍艦の「丙寅丸」は高杉晋作が藩に相談することなく、購入したものでした。金額は3万6千両です。現在の金額での計算をすると14億4千万円にあたる金額です。
高杉晋作はこの蒸気船の軍艦を藩に何の相談もなく、勝手に購入したのです。現代の会社で社員が勝手に10億円異常の物品を購入するなど想像できませんが、高杉晋作という人物への信頼で購入が可能になったのでしょう。長州藩は事後承諾の形で、3万両を超える請求書を受け取ったのです。
幕末ライター夜食の独り言
高杉晋作は反幕府勢力の中心だった長州藩の中でも、最も過激な存在であり、29年で病で斃れる短い人生の中で非常に大きな功績を残しています。好戦的なイメージもこのままでは、日本が西洋列強の植民地になるという危機感だったでしょう。攘夷の気持ちは幕府の外国勢力に対する弱腰に見える対応から、より高まったのだろうと思います。
近年では決して幕府は弱腰でなく、粘り強い外交戦略をとっていたのですが、外部からはそんなことは分かりませんし、このまま幕府に任せていたらどうなるかという危機感をもつのは、時代の枠の中にいた人たちにとって持つのが普通の感覚だったのかもしれません。討幕勢力の中心である長州藩を作り上げた高杉晋作の破天荒さは、師の吉田松陰にも似ている部分があります。
反逆児という感じもありますが、全てに反逆していたわけではありませんでした。高杉晋作は、何度も脱藩しても許されたように長州藩主との関係は良かったのです。また、両親の薦める相手と結婚するなど、両親との関係も良かったようです。幕末における西洋列強の怖さ、それに対抗するためには、現状の幕府のやり方は温いと感じていたのでしょう。
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