2004年に大河ドラマ『新選組!』が放送されました。2004年の大河ドラマは主人公の近藤勇が処刑されるところで終わりました。その後、2006年1月に『新選組!! 土方歳三 最期の一日』が放送されました。大河ドラマ以外でも新選組に関するドラマは放送されていて、歴史ファンの間で人気があります。今回の記事では、近藤勇の略歴とゆかりの地について取り上げます。
近藤勇とは
近藤勇は1834年に現在の東京都調布市に生まれました。百姓の宮川家の3男として生まれ、勝五郎と名乗っていました。幼馴染に新選組の副隊長となる土方歳三がいます。大河ドラマ『新選組!』で、近藤勇のことを「かっちゃん」と言っているのは、かつては勝五郎と名乗っていたからです。天然理心流剣術道場・試衛場に入門し、剣術の腕を磨きます。その後、近藤家の養子となり、近藤勇と名乗りました。
近藤は14代将軍徳川家茂を警護する浪士組を募集していることを知ります。浪士組には近藤勇を含む試衛館8人が応募しました。浪士組は新選組の前身とされています。近藤勇らが率いる新選組は、会津藩松平容保のもとで、京都の討幕派の動きを取り締まる役割を果たします。新選組は長州藩が集まっていた池田屋を急襲したことで有名になりました。
近藤勇の最期
新選組は大政奉還後、戊辰戦争で旧幕府軍とともに戦います。戊辰戦争の最初の戦争である鳥羽伏見の戦いでは、近藤勇は前年に京都で右肩を負傷したため参加していません。
鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜の後の船で大坂城から江戸城に向かいました。新選組は甲州勝沼の戦いで敗れ、近藤勇は捕らわれて処刑されました。近藤勇を尋問したのは土佐藩の香川敬三らで、京都で苦しめられたことに対する報復として処刑することになりました。
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会津ゆかりの地
近藤勇は処刑されました。京都の三条河原で首がさらされたという記録が残っていますが、その後行方不明になっています。新選組の斎藤一が奪い返したともいわれています。では近藤の墓はどこにあるのか。それは会津に近藤勇の墓があります。会津藩の藩主は松平容保で、新選組は会津藩のもとで働いていたので接点があります。
1422年、会津の大名蘆名盛信によって天寧寺が建立されましたが、のちに伊達氏の侵攻によりわずかに残りました。その裏手に、近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪などを持って来て、仮埋葬しました。現在、近藤勇の墓として残っています。
東京都内のゆかりの地
近藤勇の墓は会津以外では、東京都内で2か所かあります。東京都北区滝野川にある寿徳寺は近藤の胴体を埋葬したと言われています。
この近藤の墓地は1876年に新選組の隊士だった永倉新八が発起人となり建てられました。近藤以外の土方歳三や他の隊士の墓も寿徳寺にあります。アクセスはJR板橋駅の近くにあります。もう1カ所は東京都の三鷹市にある龍源寺です。近藤勇の生家は調布市にありましたが、飛行場で飛行機の接触の恐れがあったため昭和18年に取り壊され別の場所に移転したようです。近藤勇の甥の近藤勇五郎が遺体を引き取って埋葬しました。龍源寺には近藤勇の銅像と近藤家と近藤勇の生家の宮川家の墓があります。アクセスは西武鉄道多摩線の多摩駅から徒歩10分の場所にあります。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
大政奉還後の新選組について取り上げます。近藤勇は板橋で処刑されたことについては既に取り上げましたが、その他の隊士について取り上げます。
土方歳三は戊辰戦争の最後の戦いである五稜郭の戦いで榎本武揚と戦いましたが、戦死しました。沖田総司は江戸で肺結核のため病死しました。甲州勝沼の戦いで敗退後、方針の違いから離隊する人も出ました。
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