井伊直弼最後の言葉に震える死を覚悟した孤独な独裁者

2018年5月1日


 

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井伊直弼

 

戦国時代から幕末(ばくまつ)まで多くの武士や知識人達が出現します。

彼らは死の間際に自分の人生の思い等を込めた辞世の句を残します。

だけど井伊直弼(いいなおすけ)には辞世の句が残っていません。

しかし直弼は自らの気持ちを歌った句を亡くなる前日に残しており、

この句が結果的に辞世の句となってしまいます。

 

井伊直弼はどのような辞世の句を詠んだのか。

そして彼の辞世の句には一体どのような思いが込められていたのか。

今回は幕末の悪役としてのイメージが強い

井伊直弼の辞世の句に込められた想いを探ってみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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藩主など思いもよらない惨めな部屋住み時代

 

井伊直弼は彦根藩(ひこね)の藩主となった後、幕府の政治を司る大老(たいろう)になります。

しかし井伊直弼は彦根藩藩主の14男で、藩主になんか奇跡が起きないとなれませんでした。

もし直弼が藩主となるならば長男から13男まで全てが亡くなるか、

長男が亡くなり、次男以下が全て養子となって他家の家督(かとく)を継いでいるような状況などに

なっていないと直弼に藩主の地位など回ってこないからです。

 

彦根藩主14男・井伊直弼は30歳を過ぎるまで小さな屋敷に住み、結婚もできませんでした。

このように井伊直弼はかなり惨めな時代を過ごしていたのです。

 

そんな彼にも趣味がありました。

それは茶道、居合、禅、能、歌道です。

井伊直弼はいつも部屋で上記の趣味をしながら過ごしていました。

そのため井伊直弼は周りから「ちゃかぽん」とあだ名をつけられていました。

 

このちゃかぽんのあだ名の由来ですが、

ちゃ=茶道・か=歌道・ぽん=能の鼓を打つ時のポンっていう音。

これらをつなぎ合わせてちゃかぽんとあだ名を付けられてしまいます。

周りからちゃかぽんとあだ名を呼ばれ、藩主である兄との行列に行き合えば

家に入って行列を避けるような暮らしをしていたそうです。

このように惨めな生活を強いられていた井伊直弼に人生の転機が訪れます。

 



藩主だった兄の死により思いがけず30過ぎで彦根藩を相続

 

井伊直弼は31歳を迎えた年、彦根藩にとんでもない事がおきます。

それは直弼の兄で彦根藩主が突然亡くなってしまったことです。

更に直弼の他の兄弟は全て他の大名家に養子に出ていました。

そして新しい彦根藩主に兄の家へ養子に入ることを条件として、

井伊直弼が新藩主として君臨する奇跡が起きるのでした。

 

直弼はどのような心情で兄の家に養子に入ったのか分かりませんが、

直弼が彦根藩の藩主として歴史に登場することになります。

 

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桜田門外の変の前日に井伊直弼が残した最後の言葉

井伊直弼

 

井伊直弼は彦根藩主となった後、幕府の役職の一つ大老に就任。

井伊直弼は幕府の政治や外国との条約締結など多くの問題を持ち前の決断力で解決していきます。

しかし直弼の周りには彼を快く思っていない人が多く、ほとんど敵に囲まれているような状態でした。

そして井伊直弼は桜田門外で水戸(みと)藩士達に襲撃されて亡くなってしまいます。

 

そんな彼は桜田門外で襲撃を受ける前日に自らの心情を乗せた句を書き記しています。

彼が残した句は「咲きかけし (たけ)き心の 一房は 散りての後ぞ 世に匂いける」です。

この句の現代風に直してみると

「世の中のためを思った熱い思いは、自分が死んだあとにみんなが知る事になるだろう」

みたいな感じです。

 

でもどうして直弼は襲撃される一日前に

このような辞世の句みたいな物を書いたのでしょうか。

井伊直弼は水戸藩のお偉方から

「あなたは敵が多いから、身の回りの警護を増やしたほうがいい。」と

アドバイスを受けいていたそうです。

 

井伊直弼はこのアドバイスを聞いても気にするような素振りをせずに、

いつも通りの警護の人数を率いて江戸城へ出仕していたそうです。

井伊直弼にはこのようなアドバイスを受ける程、敵が多く

自分がいつ襲撃されてもおかしくない状態に居ることは知っていたと思います。

そのため井伊直弼は自分がいつ襲われて死んでもいいように

上記の句を残していたと考えるのが妥当だと思います。

 

図らずも井伊直弼は自分の心情を乗せた句を書いた翌日に

襲撃されて亡くなった為、辞世の句になってしまうのでした。

 

今も使われる一期一会は井伊直弼が言い出した茶会の言葉?

 

皆さんは「一期一会(いちごいちえ)」という言葉を知っていますか。

この言葉の意味は

「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。

だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしよう」という意味で

現在でも使われる言葉だと思います。

 

しかしこの言葉本来は茶会の心構えの言葉だって知っていましたか。

「一期一会」は茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、

一生に一度の出会いであるということを心得て、

亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えと言う意味だそうです。

 

でもこの「一期一会」と井伊直弼って関係なくないと思う方が多いと思いますが、

そんなことありません。

井伊直弼と一期一会には深い関係があるのです。

 

一期一会は井伊直弼が書いた本の冒頭部分に書かれている言葉なんです。

そして「一期一会」と「独坐観念(どくざかんねん)」の二つが広まった事がきっかけで、

一期一会が広まったとされています。

「一期一会」の言葉は井伊直弼の本のおかげですが、彼が言い出した言葉ではありません。

 

では誰が一番最初にこの言葉を言い始めたのか。

それは千利休(せんのりきゅう)です。

彼が一番最初に使った言葉を井伊直弼が再び使ったことで、

現代にこの言葉残る事になったのです。

   

幕末ライター黒田レンの独り言

黒田レン

 

井伊直弼の辞世の句は名言として知られますが、彼の名言はほかにもあります。

例えば「重罪は甘んじて我等一人に受候決意」です。

井伊直弼は日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結ぶ決意をした際、

家臣から「この条約はもう少し考え直したほうがいいんじゃないですか」と問われたそうです。

 

すると直弼はこの問に対して

「俺が全てのバツを受ける決意だ。だから今後反対意見を言わないでくれ」と促したそうです。

この意見は井伊直弼の日記に書いてあり、直弼の非情の覚悟が見て取れるのではないのでしょうか。

まだまだいっぱいあるので興味がある方は井伊直弼の名言を調べて見ると

より彼の心情を伺うことが出来るのではないのでしょうか。

 

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