大奥といえば、多くの人にとって女性ばかりがいる世界で将軍以外の男性は入れないというイメージがあると思います。大奥が舞台になったドラマがテレビで放映されたことで、愛憎渦巻く女の園で、ドロドロした世界という印象を持った人がいると思います。テレビドラマ以外の多くでは、日本史の授業で、将軍の世継ぎを作るために多くができたことや大奥の出費が多いことから幕政改革で大奥の経費節約をすることを試みたことを聴いたことがあるかもしれません。
実際、大奥の経費や面積についてほとんどの人が知らないと思います。将軍の正室である御台所や将軍の生母など地位の高い人を含めて、何人の女性が大奥で働いていたか気になっていると思います。大奥の面積や地位などの制度も気になっていると思います。この記事では大奥の人数・面積・経費を紹介します。この記事の後半では大奥を支配した女性と大奥の終わった日を取り上げます。
この記事の目次
大奥について簡単に説明
大奥は3代将軍徳川家光の頃にできたと言われていますが、実際は初代将軍徳川家康の頃からありました。当初、政治を行う場所を「表」とし、城主とその家族の私的な生活の場を「奥」とそれぞれ呼んでいました。
表と奥の境目がはっきりしていなかったため、2代将軍徳川秀忠のとき、表と奥の境を設けたと言われています。3代将軍徳川家光のとき、家光と正室の仲が悪く、跡取りができませんでした。家光に跡取りができないことを心配した春日局は、大奥を組織的に整備し、跡取りを作るための女性だけの組織にしました。これが現在知られている大奥となっています。
大奥は江戸城の何処にあった?人数や面積は
大奥は江戸城本丸の北側にありました。大奥といえば将軍家の子女や正室、奥女中たちの居所で、700人ぐらいの女性が仕えていました。幕末の時が多く、1000人いたと言われています。大奥で働いている女性の給料は次の通りです。幕府から正規に雇われて給料を得ていたのは700人のうち300人で、女中が私的に雇った女性が300人から400人いました。江戸城の面積は約36000平方メートルで、そのうち表と中奥の合計で約15000平方メートル、大奥が約21000平方メートルでした。大奥が最大の割合を占めていました。
大奥の経費はどれくらいかかった?
江戸幕府で最も経費がかかったのは大奥であると言われています。幕政改革で経費節約のために大奥の改革にメスを入れようとしたことがあります。では、大奥の経費はどのくらいかかったのか気になっていると思います。これから具体的な費用を取り上げます。
経費の中で女中の給料については、将軍や御台所に謁見できるお目見え以上で、700万円から最も多い人で2700万円でした。謁見できないお目見え以下の場合、70万円程度でパートタイム労働者と同じくらいだったと言われています。大奥で多くの女中が働いていたことから150億円程度かかったと考えられます。
経費がかかり、幕府の財政状況が厳しくなったことから幕政改革で大奥にメスを入れようとしたことがあります。8代将軍徳川吉宗の場合、美人は他に貰い手があるからということで美人をリストラしました。このリストラは経費節約のためであると言われていますが、尾張藩寄りの女中を排除する狙いがあったともいわれています。
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大奥を支配した有名な女性には誰がいる?
大奥を支配した女性として、幕末の難局を乗り切ったという点で天璋院篤姫が挙げられます。篤姫は薩摩藩島津家分家の島津忠剛の娘で、後に島津斉彬の養女になり、13代将軍徳川家定の正室となりました。
13代将軍徳川家定は病弱で後継ぎができないことから、島津斉彬から命令されて、篤姫は家定の正室になることによって、徳川慶喜を後継者に指名するように働きかけました。幕末まで江戸幕府に残り、江戸城明渡し後、女中たちの縁談と就職の援助をしました。
大奥はいつまで存在していたのか
3代将軍徳川家光の頃から江戸城が新政府軍に明け渡すまで、大奥は続いたと言われています。江戸城明渡し後、和宮と篤姫たちは御三卿だった清水家や一橋家の屋敷に入りました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は、大奥ができた経緯や人数・面積・経費について取り上げました。この記事では大奥の女中の権力について取り上げませんでした。大奥と政治権力の関係についても注目したいと思います。
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