この記事の読者のほとんどが、学校の授業について先生の行ったことを覚えるだけの受け身の授業で、意見を言うことが難しい雰囲気だったと感じるかもしれません。大学入試まで、公式や知識を一問一答形式や文章の穴埋め問題などで答えがある問題を解いていました。国公立大学の二次試験や小論文を除けば、自分の意見を記述する機会はほとんどありませんでした。
受験勉強や学校の授業の弊害で大学のゼミや講義などで日本の学生はほとんど意見を言わないと言われています。海外の大学の講義についてはマイケル・サンデル教授の「白熱教室」が挙げられます。NHKで放送されていましたが、教授と学生が議論する形式です。日本で過去にサンデル教授のような授業があったのか気になると思います。答えは次の通りで、白熱教室が過去にありました。白熱教室の舞台は江戸時代の松下村塾です。2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』でも白熱教室の光景が再現されていました。この記事では、久坂玄瑞と吉田松陰との出会いと松下村塾の講義の様子を取り上げます。
この記事の目次
久坂玄瑞から、吉田松陰への最初の手紙
久坂玄瑞と吉田松陰との最初の出会いは文通でした。
元寇の時の北条時宗を例に出して、外国の使節を斬るべしと、久坂は1回目の吉田松陰への手紙で書きました。この久坂の手紙に対して、吉田松陰は時勢を知らず、稚拙であると批判しました。手紙でのやり取りを繰り返して激論を交わしました。この久坂の手紙を通して、吉田松陰は久坂玄瑞を高く評価していたと考えられます。この文通がきっかけで久坂は吉田松陰に会うことになりました。
「共に学ぶ、松下村塾。松陰曰く、『君はなぜ勉強したいの?』」
塾長の吉田松陰から松下村塾の入塾希望者に必ず「なぜ学問がしたいのか?」と尋ねました。ほとんどの入塾希望者は書物が読めないので読めるようになりたいと回答しました。この入塾希望者の回答に対して、吉田松陰は実務を覚えるようになったら読めると答えました。習うより慣れろという実践的な人であるかもしれません。吉田松陰の教育は長所を伸ばして自覚を促すやり方です。
具体的な例として高杉晋作のケースを取り上げます。高杉晋作の性格を高く評価する一方で、学問に弱点があることを見極めました。吉田松陰は、幼馴染の久坂玄瑞をライバルに仕立て、学問に取り組ませることで高杉晋作の才能を開花させました。
松下村塾の講義について、講師が学生に一方的に話す講義形式ではなくディベート形式でした。ディベートだけでなく「対策」という吉田松陰からのレポート課題も出されました。松下村塾では、師匠と門下生のような徒弟関係ではなく、塾長と学生は共に対等な立場で学びました。
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久坂宛への手紙「日下実甫の東行を送る叙」を見てみよう
吉田松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙です。手紙のタイトルにある日下実甫とは久坂玄瑞のことを指します。送る叙とは久坂玄瑞が江戸に向かうときに送ったはなむけの言葉です。当時、久坂玄瑞は吉田松陰の妹・文(美和)と結婚することになり、吉田松陰がこの手紙で久坂玄瑞に日本の進むべき方向を模索するよう激励していることが分かります。
たまには、メールじゃなくって手紙を書いてみようか。
メールでやり取りをすることが多くなっていますが、あえて手書きで手紙を書くことによって、文字に気持ちが入ります。吉田松陰は筆まめで、江戸時代にパソコンがない点を考慮したとしても、代筆させることなく、自ら手紙を書いていました。塾生宛の手紙に吉田松陰の気持ちが入っていたのかもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は吉田松陰の松下村塾について講義形式ではなくディベート形式であることを取り上げました。大学だけでなく、中学校や高校などでも生徒が主体的に学習するアクティブラーニングを導入する傾向にあります。日本のアクティブラーニングの原点が松下村塾にあるかもしれません。アクティブラーニングと松下村塾との関係について注目したいと思います。
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