ペリー来航後、当時老中だった阿部正弘は、国難を乗り切るために譜代大名だけでなく外様大名や朝廷などこれまで政治に参加できなかった人々から意見を求めました。阿部正弘は様々な人から意見を求めましたが、その中で阿部正弘の意見に近い人がいました。その人物は堀田正睦です。
堀田正睦は現在の千葉県の佐倉藩の藩主で、欧米に対抗するためには開国しなければならないという点で、阿部正弘と意見が一致していたことから老中に就任することができました。
阿部正弘が急死すると、堀田は老中首座になりますが、2018年の大河ドラマ『西郷どん』では徳川斉昭に叱責されるところをよく見ると思います。阿部正弘は意見の対立している徳川斉昭や井伊直弼をうまくまとめることができましたが、堀田正睦はできなかったという点で頼りないと感じるかもしれません。この記事では堀田正睦の実際の人物像について取り上げたいと思います。
この記事の目次
蘭学が大好きな佐倉藩主堀田正睦
堀田正睦は1824年に佐倉藩11万石の藩主になりました。佐倉藩は下総国で、現在の千葉県にあります。堀田が藩主になった頃の佐倉藩は荒れ果てていて、藩政改革が喫緊の課題となっていました。
堀田の藩政改革は倹約や武芸だけでなく、蘭学も奨励しました。後に、蘭学では西の長崎、東の佐倉と言われるほど、蘭学で有名な藩に発展させました。堀田が老中に就任すると蘭学好きの老中と言われるようになりました。ちなみに、佐倉藩にあった医学塾「順天堂」は現在の順天堂大学の前身であると伝えられています。
失脚を乗り越え阿部の後を受け老中首座となる
堀田正睦は開国のときの老中として大河ドラマで登場し、有名になっていますが、開国前に一度老中に就任したことがあります。水野忠邦の天保の改革の時で、歴史の授業ではわずか2年で行き詰まったと勉強したと思います。堀田も老中でしたが、天保の改革が行き詰まる原因となった上知令で反発を受け、失脚しました。ペリーが浦賀に来航したときの老中は阿部正弘でした。阿部は開国という難局を乗り切るために様々な身分から広く意見を求めました。多くの意見の中で、阿部の意見に賛同し、老中になることができました。
欧米に対抗するために軍事力を増強する必要がありますが、同時に開国しなければ欧米に対抗できないという点で、阿部と堀田の意見が一致していたと考えられます。阿部正弘は急死しますが、その後を受けて堀田は老中首座になりました。
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条約締結のために賄賂6万両持って上洛、工作は成功しかけるが…
堀田正睦は6万両を持って朝廷の支持を得ようとしました。賄賂が本当に必要なのか気になると思います。賄賂は法律違反で、問題ありと感じるかもしれませんが、江戸時代は工作活動として必要不可欠でした。なぜ、賄賂が必要なのか。京都の公家は政治から遠ざかっていて貧乏でした。幕末のドラマや映画から京都の公家は貧乏という印象はないと思いますが、実態はかなり苦しかったと言われています。苦しい生活を送っていたことから、多くの公家は賄賂を渡されると動いていました。
堀田正睦は京都の公家を賄賂で動かしていましたが、井伊直弼と対立していた一橋派の徳川斉昭も京都の公家に賄賂を送っていました。徳川斉昭の親戚にあたる鷹司政通に賄賂を送り、井伊直弼・堀田正睦ら南紀派を牽制していました。
しかし、賄賂で動かない人物もいました。その人物は孝明天皇です。堀田は京都の公家や天皇に欧米のことを話しても全然話が通じず、6万両持って上洛しましたが、工作は失敗しました。
悲惨…京から戻る途中で井伊直弼に罷免され降格処分に
堀田正睦は上洛して工作活動しますが、失敗に終わり江戸に戻りました。江戸に戻る途中で、井伊直弼が大老に就任しました。井伊直弼が大老に就任すると、堀田は老中を罷免されました。堀田は一橋派であったことが罷免の原因になりました。
桜田門外の変後に復活するが報復人事で蟄居を命じられる
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されました。井伊の暗殺後、堀田は老中に復帰しますが、南紀派を支持していたということで、安政の大獄に対する報復人事として老中を罷免されました。佐倉藩で蟄居処分となり、1864年に死亡しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
堀田正睦は大河ドラマで徳川斉昭に叱責されたり、朝廷での賄賂を渡す工作に失敗したりするなど頼りない人物という印象を受けるかもしれません。佐倉藩の藩政改革に成功していることを考えると、もっと評価されてもよいと思います。
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