維新三傑の一人である桂小五郎、後の木戸孝允は元村医者であった
天才軍略家大村益次郎を死ぬまで手放しませんでした。
長州藩の軍政の近代化に桂小五郎が取り組んだとき、
その右腕となったのが大村益次郎(当時、村田蔵六)です。
第二次長州征討では、大村益次郎で幕府軍に対し勝利します。
桂小五郎は、蘭学医として突出した才能を持つ大村益次郎が、
軍略においても稀有な才能を持っていることを見抜き抜擢しました。
今回は、桂小五郎と大村益次郎、幕末から明治維新を駆け抜けた
ふたりの偉人のパートナーシップに焦点を合わせて調べてみました。
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この記事の目次
吉田松陰の刑死が2人を引き合わせた?
桂小五郎が吉田松陰の遺体を引き取りに小塚原刑場に行ったときに、
そこで人体解剖をしていた大村益次郎に出会うーーというのは、
司馬遼太郎の同名小説を原作にしたNHK大河ドラマ「花神」で描かれたシーンです。
実際は、吉田松陰の死とは関係なく、桂小五郎と大村益次郎は出会っています。
蘭学医であり、オランダ語に堪能だった大村益次郎は、
オランダの兵学書の翻訳も手がけていきます。
この中で、幕府の講武所教授となり、兵学書の翻訳、講義を行うようになりました。
そして、桂小五郎とであったのは、江戸の長州藩上屋敷で、
大村益次郎が講義を行ったときです。
このとき、長州藩は大村益次郎をスカウトします。
大村益次郎は江戸に住みながらも、長州藩士の身分となりました。
蘭学医と志士、長州藩を変革する。
長州藩は大村益次郎を長州藩士として招き入れます。
大村益次郎はしばらく江戸と長州を行き来しながら講義を行ったり、
ヨーロッパの軍学書を翻訳しています。
長州藩に戻った桂小五郎も、軍制改革の指揮をとります。
大村益次郎を藩校である山口講堂の講師とし、
西洋式の最新鋭戦術論を教えることになります。
大村益次郎が翻訳した「兵家須知戦闘術門」は、
高杉晋作の奇兵隊の訓練、運用などに取り入れられます。
最新鋭の軍隊運用である散兵戦術を奇兵隊に取り込むようにしたのは大村益次郎です。
鉄砲、大砲などの火力の大きな兵器が戦場の主役となると、
以前のような密集隊形は、被害が大きくなってしまうのです。
長州藩は軍事のソフトの部分で大きく近代化をなしとげ、
幕府軍に対し優位な軍事力を持つにいたりました。
蘭学医が名参謀?桂小五郎が見出した大村益次郎の軍才とは?
桂小五郎は、軍学者だけではなく、実戦指揮官としての大村益次郎の才能も見出しました。
第二次長州征伐では、少数の兵を見事に動かし、無駄と思えるような攻撃はせず、
幕府軍が疲弊するような動きにより翻弄します。
そして、大軍を各個撃破していくという恐るべき陸戦指揮官としての軍才を見せつけるのです。
そして、戊辰戦争に入ると、西郷隆盛は
自分より大村益次郎の軍隊指揮能力が上であると認め、指揮権を渡します。
これも、西郷隆盛の懐の深さですが、その結果、大村益次郎は
西郷隆盛に私淑する多くの人物の反発も招くことになります。
大村益次郎と桂小五郎、意外な別れ。
戊辰戦争が終わり名実ともに明治政府が樹立し、
木戸孝允は新政府の中枢を担うことになります。
このとき、大村益次郎も政府高官となり、主に軍制改革に取り組むことになりました。
この間、徴兵制による国民皆兵、職業軍人の養成などの改革案を出します。
この案を木戸孝允も支持します。
しかし、急進的な軍制改革は、士族の反発を招く可能性があるとして、
現在の藩兵を中心とした国軍の設立を考えていた大久保利通は反対の姿勢を示します。
また、岩倉具視も農民に武器を持たせることによる一揆の増加につながるとして、
大村益次郎、木戸孝允の軍制改革案に反対しました。
政治的には大村益次郎、木戸孝允の軍制改革案は退けられます。
しかし、大村益次郎は大坂を拠点として自身の考える軍制改革を既成事実化していきます。
大阪に兵学寮を設置しフランス式の軍隊組織の教育を開始します。
また、同地に造兵廠も造り兵器生産体制も構築していくのです。
この動きに、軍制改革に反対する士族が大村益次郎を狙っているという噂がたちます。
それでも、大村益次郎はさして気にすることなく、大阪の軍事施設視察に行く計画をたてます。
木戸孝允は、大村が狙われているという危険を考え、中止するように言いますが、
大村益次郎は計画を実行しそのまま視察に行き、その帰りに襲撃されることになります。
その場では一命をとりとめますが、敗血症を起こし、数日後に死亡してしまいます。
襲撃したのは、急進的な軍制改革に反対する士族の一団でした。
木戸孝允は大村益次郎の死を知ると愕然としその悲しみを日記に記しています。
あまにりも合理的でありすぎた天才軍略家・大村益次郎は、
不合理な人の行動を理解しきれなかったのかもしれません。
幕末ライター夜食の独り言
大村益次郎は、蘭学医でありながら提灯職人の嘉蔵を起用して
日本人の手による蒸気船の製造をなしとげます。
そして、蘭学の知識を生かし、翻訳をこなす中で、軍学を身に着けていったのでしょう。
大村益次郎は、当時の日本で最も西洋の軍学を理解していた人物でした。
しかし元々、空気を読まないほどに合理的な人物であったようで、
普通であれば大きな組織では使いづらい人物のです。
そのような大村益次郎を抜擢し、長州藩という大きな組織の中で
軍制改革を任せるた木戸孝允の慧眼もまた優れたものでした。
明治新政府の軍制改革も結局、大村益次郎の構想をほぼ実現する形で進んでいきます。
優秀な人材もそれを見出し、起用する人物がいなければ、なにもできません。
その意味で、木戸孝允と大村益次郎は最高のパートナーだったでしょう。
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