岩倉使節団が帰国後、明治政府内で西郷隆盛・江藤新平ら留守政府と
大久保利通ら岩倉使節団が対立しました。この対立を明治六年政変と言います。
この記事では、明治六年政変の解説から不平士族の反乱・佐賀の乱に至るまでの過程を取り上げます。
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この記事の目次
明治六年政変、いったい何があったの?
岩倉使節団が帰国した頃、明治政府内で征韓論が高まっていました。
征韓論とは武力をもって朝鮮を開国しようとする主張です。
留守政府の首脳だった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平
後藤象二郎・副島種臣らが主張しました。
岩倉使節団帰国後の閣議において対朝鮮外交問題が取り上げられました。
武力で開国するという主張がありましたが、
西郷隆盛を使節として朝鮮を開国させるということで決着しました。
明治政府は使節の派遣を決定しましたが、岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通らは
国内の政治を整備することを優先するべきだとして反対しました。
当時、太政大臣三条実美は病気で倒れ、太政大臣代理となった岩倉具視の意見が
明治天皇に受け入れられ、使節を送ることが中止になりました。
その結果、西郷や板垣らの征韓論者は一斉に下野しました。
大蔵省から司法権を奪う、征韓論者の江藤は大久保の目にどう映った?
大久保利通(当時、大蔵卿)にとって、江藤新平が明治政府の中で
権力を握ることはないだろうと思っていました。
江藤新平が参議と司法卿になると、大蔵省から司法権を奪い、
大蔵卿の代理の井上馨を汚職事件で摘発し追い落としました。
江藤ら留守政府は西郷隆盛の征韓論を支持し、
国家を破滅に導こうとしているのではないかと警戒するようになりました。
佐賀の乱、どのように鎮圧されたの?
1874年、明治政府を去った江藤新平は佐賀で反乱を起こしました。
この反乱を佐賀の乱と言い、不平士族の反乱の1つとなっています。
佐賀で征韓論賛成者の征韓党と日本を封建主義に戻す憂国党が結成され、
兵の数は約5000に上りました。
新政府軍は徴兵令で編成された軍隊で、初めての実践が佐賀の乱でした。
佐賀の乱の最初は佐賀城で政府軍は兵を失います。
その後、政府軍は巻き返し、2月23日の寒津川・田手川の戦いで江藤らは退却しました。
江藤は鹿児島の西郷隆盛に助けを求めるため戦線を離脱します。
2月27日には江藤は鹿児島に入りましたが、西郷に断られました。
今度は土佐に向かい板垣退助らに助けを求めましたが、断られました。
すでに土佐に指名手配写真が出回っていたので3月29日に江藤は逮捕されました。
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臨時で作った裁判所で審議、江藤新平の処遇
3月29日、江藤新平は土佐で逮捕されました。江藤は東京での裁判を望みましたが、
天敵の大久保利通らはそれを許さず、臨時でつくった裁判所で形だけの審理を行いました。
わずか2日間の審理で死刑判決を出しました。
江藤は判決当日に斬首となり、見せしめのための晒し首になりました。
江藤は明治政府より賊として扱われ、財産は没収されました。遺族による弔いも禁止されました。
『江藤新平「梟首」その壮絶な最期とは』で江藤の辞世の句を紹介しましたが、
この江藤の句では違法な裁判であることを表わしています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は明治の政治闘争・明治六年政変について取り上げました。
佐賀の乱で江藤新平が臨時裁判所で、わずか2日間の審理で江藤新平を死刑にした理由として、
大久保利通ら薩長閥の恨みを買ったからだと考えられます。
読者の中には恨みだけで梟首にするのはやりすぎではないかと感じる人がいるかもしれません。
また、三権分立を確立できていないことで内閣の意向が裁判に入った可能性が考えられます。
行政の圧力に屈することなく、三権分立を守った事例として大津事件があります。
大津事件と江藤新平の裁判を比較してみたいと思います。
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