勝海舟は自分で自分のことを「大ボラ吹き」と認めているように、書き残した文書などもいろいろな間違い、ホラが多く見られます。また、同時代を生きた人物の間でも、ホラのせいか評価のブレが大きい人物です。福沢諭吉などはぼろくそに批判しています。これは、お互いになのですが……
確かに勝海舟の残した文書には「ホラ」が多く、ある意味ホラ吹きであったかもしれません。今回はホラ吹きといわれることも多い勝海舟について、実際はどうであったのかを調べてみました。
この記事の目次
勝海舟のホラ吹きは誰からの影響なのか?
勝海舟のホラは父親である勝小吉の影響が非常に大きかったでしょう。勝海舟の実家は元々金貸しだった曽祖父が御家人株を買って侍となった家です。父親の勝小吉が旗本の勝家に養子に入って身分は一応旗本になります。しかし、勝海舟の家はとにかく貧乏でした。旗本といっても小普請組という無役で収入は微々たるものです。父親の勝小吉は、勝海舟の父親としてではなく、隠れた有名人で小説の主人公にもなっている人物で、異常なほどに自由奔放、いってみればデタラメな人物でした。
まず、江戸最強の喧嘩師です。腕っ節が無茶苦茶強く素手最強でした。当時最強といわれた江戸の三代道場でも勝利できないという恐るべき人物です。その腕っ節にモノをいわせ、喧嘩と道場破りの日々を送り無敗。町の顔役のようなことをやっていました。しかし、話はとても面白く著作に「夢酔独言」を残していますが、自分を反面教師にしろと子孫に伝えるために書いたといいながら、その内容は自分の破天荒な人生を面白おかしく書いたものです。「ホラ」というよりサービス精神旺盛なエンターティナーです。勝海舟のつく「ホラ」の内容をみていくと、話を聞く人間に対するサービス精神や「面白く話してやろう」という意識が垣間見え、父親である勝小吉の影響を感じさせます。
勝海舟のホラは多くの女性を虜にした?
勝海舟の「ホラ」が面白く話術がたくみだったのでしょう。非常に多くの女性を虜にして、妾を多くもっていました。勝海舟が、女性関係において奔放なことでは有名です。愛人をボロボロのせまい自宅に住まわせたという逸話も残っています。
父親の勝小吉は、圧倒的な腕っ節で自由奔放に生きたのですが、勝海舟もかなり女性関係では特に奔放な人生を送っています。父は「江戸の喧嘩師」で、息子の勝海舟は「江戸のナンパ師」とでもいうべきある意味とんでもない親子です。
勝海舟のホラには暗いところが無く、場を明るくさせる物がありました、それが多くの女性をひきつけたのではないでしょうか。勝海舟のホラはサービス精神から出てくるものがほとんどでした。大きなホラも江戸人の粋や洒落というものだったでしょう。そして粋で洒落っ気のありサービス精神旺盛な男の人はもてるのでしょう。これは幕末であっても現代であっても変わらないのかもしれません。
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勝海舟のホラが江戸の町を救った?
勝海舟は西郷隆盛との会談で江戸城を無血開城させ、江戸を戦火から救ったとされています。これは、事前に山岡鉄舟が事前に交渉して大筋を極めていたことなどがあり勝海舟ひとりの功績ではありません。ただ、勝海舟も官軍に江戸攻撃を思いとどませる張ったりをうちます。
江戸に火を放つという「焦土作戦」です。これは、一応江戸火消しと話をしていますが、将軍である徳川慶喜がそもそも無血開城の思惑をもっており、天皇に敵対し、朝敵になるなど絶対に避けたかったのです。
よって、統治者として心証が最悪になるような江戸に火を放つということを勝海舟に許すわけがありません。それでも、勝海舟はホラとはったりで、江戸を焦土にして戦う準備があると西郷隆盛に迫ります。しかし、その準備はほとんど進んでいなかったというのが、実際のところでした。あくまでも、江戸城を無血開城するにあたり、より有利な条件を引き出すための勝海舟のホラ、張ったりだったのです。日記の記述ミスが多いこと、座談における記憶違いにもとづいたリップサービスなど信頼できない語り手的問題もあるのですが、そのホラが江戸を救った面もあるわけです。
勝海舟のホラがばれた?実際にそうではなかった出来事もあった?
太平洋を横断し日本からサンフランシスコに渡航した咸臨丸の偉業について勝海舟は「日本人だけでやり遂げた。オレも頑張った」というようなことを書き残しています。しかし、咸臨丸は、アメリカ人船長や船員の働きによって、運行されていたのは実情でした。勝海舟は船酔いで全然役にたっていなかったと福沢諭吉が書き残していますが、実はインフルエンザで倒れていたのではないかという説もあります。
ただ、どちらにせよ咸臨丸がサンフランシスコに到着できたのは、日本人や勝海舟の手柄ではなくアメリカ人船長たちの功績ということになります。勝海舟がこの点について「ホラ」を吹いていたの確かです。また、江戸城無血開城時の江戸を火の海にするという「江戸焦土化作戦」もはったり、ホラの類でしょう。勝海舟は晩年は多くの文書を残しますが、その内容は大風呂敷を広げて、とにかく「読むものが面白がってくれりゃいいんだよ」というような内容のものを多く残しています。そのため晩年の勝海舟は「氷川の大法螺吹き」と呼ばれもしました。
歴史ライター夜食の独り言
勝海舟はそのホラのせいで、同時代人の中にも強烈なアンチがいました。福沢諭吉が代表ですね。お互いに犬猿の仲であったことは事実で、勝海舟も福沢諭吉を「金儲けが好き男」というようなことを書き残しています。もし、これが勝海舟のホラでないなら、福沢諭吉は本望でしょう。なにせ、お金の肖像画になりましたので。
福沢諭吉が亡くなる前年に刊行した「瘦我慢の記」では勝海舟批判を繰り返しています。しかし、福沢諭吉は刊行前に勝海舟に本の内容を送り、間違いがあれば直すので言って欲しいと書を送っています。それに対し、勝海舟は「おりゃ、オレの好きにやった、批判は勝手に自由だ。むしろ高名な学者に批評されるのはありがてぇ」というようなことを回答しています。江戸弁っぽく意訳してみたものです。勝海舟はホラ吹きであったかもしれませんが、同時に幕末時代を代表する偉人であったことは間違いありません。そして、江戸の粋や洒落を体現した「ホラ吹き」な人物であったのでしょう。
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