東京お台場は江川英龍が築いた連携砲台だった!


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江川英龍(えがわひでたつ)の名前を知っている人はそう多くないかもしれません。

しかし、彼はペリー来航以降の激動の日本の中で非常に大きな役割を果たした人物です。

幕臣として伊豆韮山(にらやま)代官であった江川英龍は地理的な理由もあったのでしょうか、

海防問題に非常に興味を抱き、特に安全保障の問題で大きく貢献した人物です。

その江川英龍が築いたのが、東京の観光スポットとなっているお台場です。

元々は幕府が海防のために建造した連携砲台だったのです。

今回は、江川英龍の築いたお台場のエピソードについてご紹介していきます。

 

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どうしてお台場に砲台が築かれたのか?

ペリー

 

お台場が築かれたのは、ペリーの来航が直接の原因となっています。

浦賀(うらが)に来航したペーリーは幕府に対し開国を要求します。

江川英龍は以前から海防対策の必要性を幕府に上申していました。

 

幕府は江川英龍に江戸周辺の海岸の調査を実施させます。

そして、彼は三浦半島から房総半島の海岸を調査した上で、

観音崎(かんのんざき)富津(ふっつ)、品川沖に台場を設置することを提案したのです。

台場とは江戸の海防拠点となる砲台です。

品川沖の台場建設が決定し、江川英龍は11基の台場の設計を開始します。

彼は代官でありながら、軍事技術にも長じていたのです。

江川は英龍は日本の近代砲術のパイオニアである高島秋帆に弟子入りし、

近代砲術の技術を習得し、多くの近代兵器に関する知識を有していたのです。


当初から資金難に苦しめられ縮小を余儀なくされたお台場

お金

 

しかし、当時の幕府は資金難であり、全ての工事ができませんでした。

よって、観音崎、富津 の台場建設は断念されます。

品川沖の台場建設だけが決定し、江戸湾内海での防衛拠点が建設されることになりました。

品川沖には海上に合計11基の台場が建設され連携砲台として機能する予定で設計されます。

江戸英龍は、品川沖の台場を2列で連なる形で11基設計し、

海岸に設置した砲台1基と合わせ防衛拠点を建設する予定でした。

 

しかし、ここでも幕府の財政難が立ちはだかり、建設資金が不足します。

しかも、ペリーの再来航までにはなんとか、形だけでも見せ付けなければ抑止力になりません。

品川沖の台場建設は、資金難の中、第一、二、三、四、五、六、七台場が着工されますが、

第四、七台場は建設中止となり、当初11基建設予定だった台場の内

6基の台場が建設されませんでした。

 

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重機もない昔、どうやって湾を埋め立てた?

 

台場の建築のためにはまず、品川沖の江戸湾を埋め立てなければなりません。

重機も無い時代に、どのような方法で湾を埋め立てたのでしょうか。

台場の工事の基礎となる埋め立て工事は、海底の埋め立てから開始します。

まずは、海底から埋め立て、小さな島を作ります。

 

その島の周囲を広げていく形で埋め立て地を形成していきます。

埋め立て用の土は御殿山(ごてんやま)、続いて高輪(たかなわ) 泉岳寺(せんがくじ)境内から運びました。

そして、地杭を打ち込みます。地杭とは台場の上に作られる防御用の石垣の基礎になります。

 

地杭となる丸太は現在の千葉県や八王子などから運び込まれました。

木材は地杭以外にも必須の材料になります。

地杭の上に木材で井桁を造り、その中に小石、土砂を入れ基礎を完成させます。

更に石垣を積み上げ台場という人工島は造られたのです。


十字砲火も考えられていた砲台

黒船

 

江川英龍の設計した台場の大砲は、真正面から敵を撃つだけでなく、

側面から包み込むような十字砲火が可能なようになっていました。

船は側面を晒したときの方が面積が大きく、攻撃を受け浸水すると非常に危険です。

江川英龍が、近代火力戦の運用を理解し設計した結果です。

実際にお台場の砲台が火を敵に向け火を噴くことはありませんでしたが、抑止力(よくしりょく)として、

そして日本という国家の不気味さをアメリカに感じさせる効果があったのです。


  

 

結局完成しなかったお台場、その理由は?

徳川家紋

 

江川英龍の当初の設計通りにはお台場は完成しませんでした。

その理由は幕府の財政難です。

当初は11の台場を品川沖に建設し、江戸湾の内海防衛ラインを作る予定でしたが、

最終的に完成したのは、第一から第三台場が、ペリー来航の2回目の来航の3ヵ月後で、

その年の12月に第五、第六台場が完成します。

 

台場は当初の計画の半分の規模で工事を終え、江川英龍の設計通りには完成しませんでした。

当初の半分の規模になったとはいえ、台場の建造のつぎ込まれた費用は75万両に達しています。

ペリーの2回目の来航に間に合わせるため、突貫工事で人手を増やしたなど、

費用が増える要因もありました。

また、幕府は京都御所(きょうとごしょ)造営計画も進めており、予算を京都御所の方に振り向けた場合、

台場の完全な完成は予算上不可能であったのです。

 

お台場は役に立ったのか?

 

江川英龍の設計したお台場は、ペリー来航直前には、一部は完成をみます。

少なくともペリー艦隊のほうから見れば、前回無かった砲台が江戸湾に出現しているわけです。

ペリーは品川沖で台場を見てそれ以上の接近を試みませんでした。

結局横浜まで回航し上陸することになりました。

 

この時点で台場は未完成でしたが、外観だけは脅威に見えたのでペリーに圧力をかけることになります。

また、ペリーが日本人に対し高圧的な態度で接した反面、その日記で日本人の能力を高く評価し

「自分たちのライバルになる国」であると予言めいたことを書いています。

日本人に一目置かせるという面では、お台場は効果を上げた面はあるでしょう。

 

しかし、実際の防衛力が75万両の巨費につりあっていたのかどうかとなると、

非常に疑問も残ります。

品川沖内海に防衛ラインを設置しているということは、

すでに内海侵入を許すという前提の防衛計画であり、自由に航行できる蒸気船が、

台場に設置された大砲の射程圏外の内陸を狙ってきた場合、全く手がでないことになります。

建設費につりあうほどに役に立ったとは断言できないのではないでしょうか。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

お台場は、今は東京の観光スポットとなり、そこが軍事施設であったことを

知る人は少ないのではないでしょうか。

 

そして、台場を設計し、幕臣として先進的な軍事技術を取り入れ、

日本の海防対策に取り組んだ江川英龍もその存在があまり知られていません。

軍事的な物を「よろしくない物」として考える戦後の言論風土が

彼の存在を風化させていったのかもしれません。

台場単体では、巨費に見合うだけの効果を上げえたかどうかは分かりません。

 

しかし、明治維新以降、世界が驚嘆する近代化を成し遂げ、

戦後は技術立国となった日本の地力を

アメリカに見せ付けた最初の事業であったかもしれません。

 

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