どうして蜀は人材難に陥ったのか?

2018年5月28日


 

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孔明

 

魏呉蜀(ぎごしょく)の三国でもっとも小さかった蜀、特に諸葛孔明(しょかつこうめい)の没後には、

彼を上回る宰相が登場する事もなく、姜維(きょうい)の健闘も空しく滅亡に向かっていきます。

このような蜀の状況を人材不足が原因と分析するのは簡単ですが、それなら

同じく、魏よりは小さい呉も人材不足に陥った筈ですが、そんな声は聴きません。

そこで、はじめての三国志では、どうして呉ではなく蜀で人材不足が深刻な状況に

陥ったのかを考えてみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の人材難の原因1 ガチガチの官僚機構

孔明と劉備

 

魏に比較しては、小さい呉では人材不足が表面化せず、蜀で顕著な理由は、

諸葛孔明が確立した蜀のガチガチな官僚機構が挙げられます。

諸葛亮はシステマチックな人物であり天才を必要とせず、優秀な官僚を歯車に

国政を充実させていく官僚機構を築き上げました。

 

これにより、蜀は社会の隅々まで統制され、国力に不釣り合いな、

五度の北伐を可能にしましたが、同時に独創的な人材が出現するのを防ぎ

決められた事を決められた通りに行う官僚が優秀な人材と規定されます。

孔明

 

孔明にしても好んだのは典型的な能吏であり、癖が強く独創的な

魏延(ぎえん)劉封(りゅうほう)廖立(りょうりつ)李厳(りげん)劉琰(りゅうたん)楊儀(ようぎ)は遠ざけられたり処刑されたりしています。

「自分で考える人間は危ないから要らない、TOPが考えた事を忠実に遂行せよ」

蜀の人材登用の基本は、そういう事だったのでしょう。

 

逆に呉は、最初から最期まで豪族の連合政権であり、

諸将は同時に土地の支配者であり、君主権に対して抵抗する力を持ちました。

平均的な人材は出ませんでしたがバラエティ豊かな人材は出現し

終盤まで魏に対して対抗しうる力を持ちえたのでした。

 



蜀の人材難の原因2 ポストが少なくキャリアが積めない

陳平

 

蜀は面積こそ広大ですが、中国と呼べるのは胃のような領地の上の20%であり

その南に広がるのは異民族が住む広大な無人の土地でした。

後漢の時代には、700万を数えたという人口も戦乱の中で100万前後まで

大幅に低下しており、非常に人口が希薄だったのです。

 

蜀は9つの郡と3つの属国から構成されていましたが、その数は

三国中で一番少なく、人材がいてもポストを与えてキャリアを積ませるのが

難しい状態にありました。

 

また、諸葛亮以来、荊州由来の人士が益州豪族を抑える権力構造なので

土着の益州人士が県令は兎も角、その上の太守のポストを得るのは

定員の問題でかなり難しかったでしょう。

関羽

 

荊州南郡が失陥しなければ、荊州人士を振り分ける事でポストも増えたでしょうが

すでに関羽(かんう)が討たれて、南郡は魏呉で分割された事は周知の通りです。

 

優秀な人材でも、まず仕事をさせなくては分かりませんから、

与えるポストが少ないのは、人材の育成にとても不利になります。

 

一騎打ち

 

蜀の人材難の原因3 あまり戦争をしてないので実戦経験に乏しい

 

蜀は孔明がガチガチの官僚機構を築き上げ、同時に外戚が権力と結びつく事を

排除する為に呉懿(ごい)のような人材を冷遇したので建国から滅亡まで、

政権を揺るがすようなクーデターはありませんでした。

孔明と呉懿

 

同時に北伐のような大きな戦争も、孔明の慎重な用兵のお陰で

壊滅的な被害を受けず兵力を温存し続ける事が出来ました。

何より、秦嶺山脈があり漢中を抑えた事で外から攻められる事が余りなく

寿春三叛のようなクーデターばっかりの魏や、頻繁に魏と合肥を巡って争った

呉に比べて、対外戦争が少ないのも特徴でした。

蜀漢の外戚・呉懿(ごい)は有能なのに地味で実は孔明に敬遠されていた?

 

北伐を除けば、魏の曹爽(そうそう)の実績づくりの為の興勢(こうせい)の役位ではないでしょうか?

 

しかし、それは同時に戦争に従軍した経験豊かな名将が乏しくなる

というような問題も起こす事になります。

蜀では異民族反乱は頻繁で、張嶷(ちょうぎょく)、馬忠のような異民族対策のプロは出てきますが

同じ漢民族同士で会戦を行える人材と言えば、姜維(きょうい)王平張翼(ちょうよく)、夏侯覇など

数える程しかいなくなりました。

劉禅

 

平和は結構な事ですが、戦が無くなると名将はいなくなるのは当然であり

おまけに末期には、頻繁に戦っている姜維の軍勢と成都の関係も悪くなり

剣閣を迂回した鄧艾(とうがい)の軍勢が成都に迫ると、劉禅(りゅうぜん)があっさり降伏するなど

全く戦慣れしていないヘボヘボな末路を迎えます。

 

蜀の人材難の原因4 夷陵の敗戦

劉備

 

蜀が最も経験豊富だったのは、劉備の入蜀から8年位の間でしょう。

劉璋との闘いは2年間にも及び、入蜀に関係して従軍した荊州人士に、

十分な戦歴を積ませる事に貢献しました。

 

あまり重要視されませんが、馮習(ふうしゅう)張南(ちょうなん)傅彤(ふとう)のような将軍は、

この入蜀の時に十分なキャリアを積んだと考えられるのです。

しかし、この3名は西暦222年の夷陵(いりょう)の戦いで敗れて戦死しました。

得難い2年の戦役で鍛えられた将軍達が、ここで戦死したのは

人材育成の面から考えても大きな痛手でした。

 

彼らが生きていれば、馬謖の実戦投入を遅らせ

街亭の戦略ミスも防げたかも知れず、

北伐の風向きも変わったかも知れません。

   

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

蜀の衰退の理由を考えると、現代の組織の衰退と重なる部分があります。

独創的な人材を入れず、小利口な能吏だけを入れる。

新規開拓をせず従来の分野だけを固守、血族だけで重要ポストを独占し

広く一般から人材を育てる事をしない。

やがて、有能な一部の社員が会社を離れていき、ノウハウの伝達が難しくなり

没落の道を辿っていくという所なのかも知れません。

 

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北伐の真実に迫る

北伐  

 
 

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