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川口雪蓬(せっぽう)とはどんな人?西郷家の最強居候

2018年6月21日


 

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島津久光(しまづひさみつ)の命令を無視して逆鱗(げきりん)に触れ、沖永良部(おきのえらぶ)に流罪になった西郷(せご)どん、しかし、こんな絶海の孤島でも西郷どんに影響を及ぼす出会いはありました。一つの出会いは西郷どんの命を救った島の役人、土持政照(つちもちまさてる)、そしてもう一つは西郷どんの書の先生であり、沖永良部からの帰島後も、西郷家に居候(いそうろう)し留守を守った川口雪蓬(かわぐちせっぽう)です。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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久光の書を質に入れて沖永良部に流罪?豪放磊落な雪蓬

島津久光

 

川口雪蓬は、1818年、江戸藩邸付きの馬廻り役の薩摩藩士、川口仲左衛門(かわぐちちゅうざえもん)の四男として、種子島(たねがしま)西之表村納曾(にしのおもてむらのそ)に生まれます。本名は量次郎(りょうじろう)で明治元年に俊作に改名し、明治5年9月19日に雪蓬と名乗りますがややこしいので本文では雪蓬で統一します。馬廻り役というのは旗本なので、薩摩藩でも大役だと思いますが、父親は不始末をしでかしてお役御免になり鹿児島に引き上げます。次に兄が実家を再興させますが、また罪を犯して名跡を取り上げられます。この為に連座で四男だった雪蓬も沖永良部に流されたそうです。また、別の説では、能書家だった雪蓬は島津久光の写字生として勤めていたもののあまりの酒好きで、ある時我慢が出来なくなり、久光の蔵書を質に入れて酒を買う資金にした事がバレて、沖永良部に流罪にされたとも、、

 

本

 

或いは、種子島出身の島五郎(しまごろ)(田舎者)なのに久光に取り立てられたので、周囲が嫉妬して冤罪(えんざい)を被せられたとも言われているようです。ハッキリしているのは、川口雪蓬が何らかの理由で沖永良部に流されその後、西郷どんが流されたという事だけです。

 

 

西郷どんと意気投合し毎日3キロの道のりを通う

 

流罪になったとはいえ、雪蓬は牢獄に入れられるような罪人ではなく沖永良部の西原という土地で、島の子供達に読み書きを教えつつ、比較的自由に過ごせていました。そんなときに、土持から西郷吉之助(さいごうきちのすけ)が罪人として島に来たと聞いたのでどんな人物かと会いに行き、たちまち意気投合、3・4キロの道のりを毎日、和泊(わどまり)の西郷どんの座敷牢まで通い談論したそうです。毎日、雪蓬が訪ねてくるので、西郷どんの負担を心配した土持政照は「少し面会を控えるように言いましょうか?」と尋ねると西郷どんは「川口どんは、和漢の学に通じて語るに足る人だから、このままでよい」と答えて一向に気にしませんでした。

 

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俺達尊攘派

 

西郷に書を教え冗談を言い合う仲

夫婦で仲良くする西郷隆盛

 

雪蓬は西郷どんに書を教えますが、厳格な師弟関係ではなくお互いに冗談を言い合うような気軽な付き合いをしていたようです。雪蓬は西郷どんより10歳上ですから、当時としては珍しい交友でした。ある時、下手な漢詩を書く西郷どんに対して、雪蓬は李白(りはく)の漢詩を示して「吉之助サア、漢詩とは、このようにスラスラと書かないといけないおはんは詩(四)どころか、ちょっと賛(三)にも足りない」とからかうと

 

西郷どんは大酒を飲んで、どこででも寝てしまう雪蓬をからかい「これからは睡眠先生と呼びましょう」と返しました。すると雪蓬は「どうせなら酔眠先生にしなさい」と添削(てんさく)するなどお互いに冗談を言い合う関係が続いたようです。二人は「お互いに先に島を出られた方が、後に出る方の生活を扶助(ふじょ)しよう」と堅い盟約を交わしました。これで見ると、雪蓬は独身で家庭を持っていないようですね。

 

 

西郷どんが島を出てから一年後雪蓬がふらりと現れる

 

西郷どんは1864年、朝廷工作の為に許されて鹿児島に帰ります。それからさらに1年後に雪蓬も赦免され沖永良部を出ました。しかし、独身で身寄りがない雪蓬、そうでなくても傍若無人(ぼうじゃくぶじん)豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格の彼は、親戚の家を転々としつつも居つけず、いよいよ、沖永良部時代の盟約を頼り、鹿児島上之園にあった借家住まいの西郷家にふらりと現れます。その時西郷どんは京都に上っていて留守で、新妻の西郷糸(さいごういと)が応対しましたが雪蓬は沖永良部時代の誓いを盾に、そのまま西郷家に居候を決め込み以後、1890年に死ぬまで西郷家の世話になり続けます。

 

ただ、雪蓬は西郷家にとっては、貴重な男手であり、力仕事や、西郷宛ての書状や面会などの応接は雪蓬の仕事となりました。また、西郷家の子女の読み書きは、全て雪蓬が教えていた他に、西南戦争の時には、右足を切断した西郷菊次郎(さいごうきくじろう)の義足の手配をするなど男手がいない西郷家で家令の役割を果たしています。一方的な居候ではなく、西郷家には無くてはならない人だったのです。

 

 

西郷どんの名誉回復を見届け72歳で生涯を閉じる

72歳で亡くなる

 

川口雪蓬は、西南戦争ではすでに60歳を迎えていた事もあり西郷家に留まり留守を守りました。西郷隆盛の戦死後も、雪蓬は逆賊の一族と言う周囲の白い目に耐えつつ、気骨ある態度を貫いたと言われています。

新政府

 

1890年、大日本帝国憲法が発布され、帝国議会が開かれると同時に、西郷の名誉は回復されます。それを見届けて安心したかのように雪蓬も72歳で死去しました。

 

 

西郷どん

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

沖永良部での出会いを契機に、西郷家に居候し生涯を西郷家の人々と過ごした川口雪蓬。西郷どんの親友には、大久保利通(おおくぼとしみち)などもいますが、一番、長い時間を共に過ごした人といえば、川口雪蓬が一番ではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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