歴史は99%仮定の分野です、それまで堅く信じられてきた定説でも、新しい証拠が出現すると、一日にして覆ってしまう事も珍しくありません。日本の歴史から見るとつい最近である幕末も例外ではなく例えば、江戸時代も1867年ではなく1862年に終わった説があるのです。
この記事の目次
島津久光の上洛で江戸時代は終結
日本史の教科書では、江戸幕府の消滅は1868年の5月3日、西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸城が明け渡されて最後の将軍、徳川慶喜が水戸に謹慎した時とされます。しかし、これは一面的な見方であって、実際の江戸幕府は、1862年に上洛した薩摩の島津久光が雄藩と朝廷の合議で提出した幕政改革書を受け入れた事で、事実上は消滅したと考えられているのです。この提言は、文久の改革と言われますが、その内容は、政事総裁職の設置、将軍後見職の設置と、京都守護職の設置、それに参勤交代の緩和、洋学研究所の設置と多岐に渡りました。
改革により幕府の力は極限まで弱まる
これだけ見ると、幕府が朝廷や雄藩の圧力に屈しただけに見えますが、そんな単純な話ではありません。政事総裁職の松平春嶽や将軍後見職の一橋慶喜は任命後は江戸に戻らずその活躍の拠点は京都になっていきます。
京都守護職とは、京都所司代の上にある組織で会津藩の松平容保が就任し新選組などを配下に従え、事実上の首都治安警察として機能する事になりました。これは、江戸に代わり政府要人が集うようになった京都を過激な攘夷志士から守るという役割があったのです。
また参勤交代を三年に一度に緩和し、諸大名の人質として預かっていた妻子を国元に返す事で、幕府は諸大名に睨みを効かす事は出来なくなります。こうして幕府は存在しながら力は削がれ国政からは蚊帳の外になったのです。
以後の政治は、一橋慶喜や公武合体派の雄藩の藩主、島津久光、鍋島直正山内容堂、松平春嶽のような公武合体派と長州藩のような尊王攘夷派の勢力争いにシフトしていきました。江戸は国政から遠ざかり260年続いた独裁体制は崩壊したのです。
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幕府は滅んだ!ジャパン・ヘラルドの記事
外の世界からは日本政治の激変は、より強烈に意識されました。1862年10月25日のジャパン・ヘラルド新聞は、
「日本ではこの1週間の間に革命が行われ、デモ一つ無く静かに国の基本構造が変わった諸大名はいずれも妻や家族を人質として江戸に残す必要はなく領国に帰って住むことが出来るようになった。この変革は徳川幕府の権威が失墜したことを示し、権力の座はおそらく間もないうちに京都朝廷に移るだろう」
このような記事を載せています。同様の報告は、ロシア領事のヨシフ・ゴシケーヴィチも行いました。海外は、文久の改革を革命と考えていて、これで幕府の一極支配が終了したと捉えていたのです。
禁門の変以後 戦いは一会桑vs薩摩長州の対立へ
幕府が事実上崩壊した後、日本の政局は公武合体派の一橋慶喜、会津藩主、松平容保、桑名藩主、松平定敬、それに薩摩の島津久光のような勢力と天皇親政を実現し即時攘夷をスローガンにする長州藩の戦いになります。
しかし、心情的に攘夷で幕府を信頼する孝明天皇は密勅を下して長州藩の排除を示唆、ここに八・一八の政変が起き長州藩は御所の警備の任を解かれ長州藩士と尊攘派の公卿は京都から追放されます。
これを不服とする長州藩は、武力で京都に進撃を開始し、禁門の変で、会津藩や薩摩藩のような公武合体派と衝突し惨敗します。こうして公武合体派は京都を握り、一度政治を掌握したのです。ですが、宿敵の長州藩を葬ると同じ公武合体派でも国政により関与したい薩摩と、徳川家の権力を強く維持したい一橋慶喜の間に軋轢が生じてきます。慶喜は、江戸の幕閣の干渉を排除し薩摩の干渉を排除すべく、松平容保や、松平定敬と緊密に連携して一会桑政権を樹立します。
これに不安を覚えた薩摩は、一度は討伐した長州藩に接近を開始します。第一次長州征伐後の長州藩の処分なども寛容にし長州藩へアプローチし、それが薩長同盟へと繋がっていく事になります。それは、一会桑vs薩長という新しい勢力の対立を意味しました。
王政復古で徳川慶喜は降伏
第二次長州征伐の失敗、14代将軍、徳川家茂の病死は徳川幕府の威信を致命的に失墜させますが、一橋慶喜が15代将軍に就任した事で、一会桑政権は江戸の幕府勢力を取り込む事になります。将軍になっても、徳川慶喜は江戸城に入らず、京都に常駐するばかりか、江戸から重臣を呼び寄せるなど京都重視の態度を崩しません。
慶喜の頼みは、図体ばかりデカイ幕府ではなく孝明天皇でした。徳川慶喜は、嫌らしい程のクリンチ作戦で朝廷から官位を得ようとしたり公卿の娘を妻にして、朝廷との結びつきを強めようとしつつ、同時に旧式の幕府体制をあっさりと自分好みに改革していきました。頼みの綱としていた孝明天皇が天然痘で急死すると、徳川慶喜は大政奉還を行い、薩長の矛先をかわそうとします。すでに慶喜の中で幕府は終わったものであり、徳川家、会津藩、桑名藩の連合による新政権を考えていたのでしょう。
しかし、薩摩藩の力で再度御所でクーデターが起こり、今度は親慶喜派の公卿が大勢排除され、王政復古の大号令が出ます。薩長は明治天皇を擁して大義としたので、これを明治政権と呼びます。大政奉還では徳川家当主として権力の中心にあった慶喜は、王政復古の大号令では、朝敵とされ権力から排除されました。鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は天皇に逆らう事を不利と見て江戸に逃亡以後は謝罪恭順の態度を崩さず、江戸城は無血開城します。
慶喜降伏後も一会桑政権は戦い続けた
もし、幕府が存続していたなら、徳川慶喜が江戸城を明け渡した時点で、戦争は終結した筈ですが、実際はそうはなりませんでした。それは、少し前まで孝明天皇を擁して官軍だった会津藩や桑名藩に薩長は天皇を操り人形としているだけで、正義はこちらにあるという意識があったからだと考えられます。
そうでなく、意識が幕府の臣のままであれば、慶喜が恭順した時点でさらに戦うモチベーションは失せたでしょう。これも、幕府はすでに滅んでおり、戦いは一会桑残党(孝明政権)と明治政権の戦いに変化していたという根拠です。
不思議な土方歳三の辞世の句
一会桑政権の残党と明治政権の戦いは北越戦争を経て、最後の五稜郭の戦いへとシフトしていきます。この戦いに新選組副長の土方歳三が参加していたのは有名な話です。しかし土方歳三の辞世の句は、とても妙なものでした。
”たとえ身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらん”
この東の君は何を意味しているのでしょうか?土方が仕えていた徳川慶喜、会津藩主松平容保でしょうか?いえ、これはストレートに明治天皇を意味しているように思えます。
その理由は、元々は京都にいた明治天皇が東京に奠都したからです。だから、西の君ではなく東の君なのでしょう。
※奠都とは都を移す事、遷都
土方は、俳句の中に桜田門外の変を織り込むようなビビッドな感性の持ち主なので、明治天皇の東遷をすぐに辞世の句に盛り込んだとも考えられます。元々、新選組は尊皇攘夷の組織であり、近藤も土方も精神的には天皇の臣という意識がありました。
ましてや京都の警視総監の地位にあった松平容保の直属組織、新選組の副長の土方の尊皇心には強いモノがあり、同時に一会桑政権として日本を代表する地位にあったものが、明治政権のクーデターに追われたという悔しさもあったのでしょう。自分は幕府の臣ではなく、天皇の臣であるという自負が、土方歳三に、このような辞世の句を吐かせた、同時にそれは、一会桑政権の残党として戦う人々に共通した愛国意識だった、そういう事にならないでしょうか?
幕末ライターkawausoの独り言
幕末と言うと、幕府vs薩長の争いと定義されがちですが、実際の幕府は、1862年の島津久光の上洛により独裁権力を失い崩壊、以後は、京都に在府する一橋慶喜や賢侯会議に政治の主導権を奪われ、その後の歴史は、公武合体派勢力の一会桑と倒幕の薩長の間で主導権争いが行われた、そう考えた方が自然です。すでに幕府はなく、いずれも天皇を擁した日本の代表政府だと主張する一会桑と薩長の戦いに変化したからこそ、江戸城の無血開城後も戦争は終わらず戦いは函館戦争まで延々と続く事になったのだと思います。
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