勝海舟と西郷隆盛!江戸を戦火から守った2人の真実とは?

2018年7月12日


 

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次元の高い考えを抱いてた勝海舟

 

勝海舟(かつかいしゅう)西郷隆盛(さいごうたかもり)は、江戸城無血開城を決め、江戸を戦火から守ったとされています。旧幕府軍と明治新政府軍との戦いである戊辰戦争の最中、なぜ江戸城無血開城が決定し、江戸は戦火から守られたのでしょうか。勝海舟と西郷隆盛の果たした役割とはなんだったのでしょうか。今回は、江戸城無血開城の会談を行った勝海舟と西郷隆盛の思惑や行動について調べてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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主君の立場を尊重した勝海舟

主君の立場を尊重した勝海舟

 

旧幕府は官軍(明治新政府軍)の朝廷工作によって朝敵となり味方だった藩も離脱していきます。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、官軍が大勝し、旧幕府軍は今後どう対応するか迫られていました。明治新政府に対し「徹底抗戦する」のか「恭順する」かです。このような状況で徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、明治新政府に恭順する意向を示します

 

政治を返還する徳川慶喜

 

 

しかしまだ江戸幕府内には徹底抗戦派も力を持っており、官軍を迎え撃ち勝利しうる可能性のある作戦を立案していました。それでも、朝敵となることを拒否した徳川慶喜によって、徹底抗戦派は罷免され、ここで勝海舟は陸軍総裁として抜擢されました。

 

次元の高い考えを持つ勝海舟を尊敬した坂本龍馬

 

この結果、勝海舟は歴史の表舞台に大きく変わることになります。江戸城明け渡しの条件はすでに官軍側の西郷隆盛から山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)に出され、勝海舟もその条件を確認していました。その中で、絶対に飲むことの出来ない条件が徳川慶喜の備前藩預かりだったのです。他の条件はともかく、西郷隆盛と山岡鉄舟の事前交渉でもこの点は西郷の預かりとして検討事項になっていました。

 

そして、勝海舟と西郷隆盛の間で、江戸城明け渡しの本交渉が行われます。勝海舟は江戸城明け渡しの条件を事前交渉時の内容よりも更に緩やかなものとして西郷隆盛に提示しました。特に、徳川慶喜は故郷である水戸で謹慎ということで、官軍の提示した備前藩預かりを拒否します。事前交渉でまとまらなかった条件に対し更に寛大な条件を勝海舟は西郷隆盛に要求したのです。徹底抗戦派を排除し自分を抜擢した徳川慶喜の立場を、勝海舟は守ろうとしたのです

 

 

戦火に備えて準備万端の勝海舟

江戸城

 

勝海舟と西郷隆盛の会談の結果、講和はなされず、江戸での戦闘になる可能性もありました。官軍が条件を受け入れなければ、勝海舟は江戸を焦土に変えて徹底抗戦するつもりであったといいます。そのため、とび職、火消し、博徒などと相談し、江戸焦土作戦を立てており、江戸の住民を避難させるために江戸湾(東京湾)に船を集める計画をしていたといいます。

 

ただ、この計画については後年、勝海舟が語ったことで、彼の話を面白くするための「ホラ話」の癖を考えると信憑性に疑問を投げかける声もあります。勝海舟の何かしら覚悟をよみとった西郷隆盛は、旧幕府側の講和条件を持ち帰り京都で検討すると約束して、江戸への攻撃を中止しました。

 

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俺達尊攘派

 

 

西郷隆盛の立場を読み取った勝海舟

若い頃の大久保利通

 

官軍の中でも旧幕府に対する処分はバラバラでまとまっていませんでした。西郷隆盛は本当は強硬派であり徳川慶喜に対しては切腹を求めるという書を大久保利通(おおくぼとしみち)に送ってます。また、後に自由民権運動で活躍する板垣退助(いたがきたいすけ)も武力討幕の急先鋒でした。

 

桂小五郎(木戸孝允)

 

一方で、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)桂小五郎(かつらこごろう))や、公武合体政策を目指していた前土佐藩主の山内容堂(やまうちようどう)、福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)も徳川慶喜の処分には絶対反対の立場でした。

松平春嶽

 

官軍の中でも強硬派である西郷隆盛を動かせば、官軍も徳川慶喜に対する処分を寛大なものとするだろうという読みが勝海舟にはあったのでしょう。そして西郷隆盛にとって、勝海舟はかつて共和制政府の構想について聞かされ、感銘を受けた相手でもありました。勝海舟は、とにかく腹を割って話せば、西郷隆盛を強硬論から転換させることが出来ると考えていたのでしょう。

 

会談により西郷隆盛は、強硬論を撤回し強硬論者である板垣退助らの説得にまわります。結果として、江戸城は無血開城され、江戸が戦火につつまれることは回避されたのです

 

 

官軍に条件をのませた勝海舟

 

勝海舟は旧幕府内の人脈を駆使して官軍に対し圧力をかけます。そのひとつが英国公使ハリー・パークスによる官軍への勧告でした。ハリー・パークスはすでに恭順の意を示している徳川家への攻撃は国際法に反する行為であると官軍に対し勧告したのです。

 

勝海舟の条件を検討するとして軍を止め、強硬論から転じた西郷隆盛にすれば、ハリー・パークスの勧告は、官軍内部の強硬派を説得するための材料になります。パークスの圧力が勝海舟と西郷隆盛の会談の日の前後どちらであったのかは、まだ不明確な点が多いですが、英国公使の勧告は、官軍が徳川慶喜の処分が勝海舟の提示した水戸謹慎と言う条件を飲ませる要因になりました。

 

 

歴史ライター夜食の独り言

歴史ライター夜食の独り言

 

勝海舟は官軍が山岡鉄舟に事前交渉で提示した条件を更に緩めて提示しました。特に徳川慶喜の処分については、事前交渉でもまとまりきらなかった条件です。これを、勝海舟は、腹を割って話せばいけるとして、官軍の中でも強硬論の中心であった西郷を説得します。勝海舟にとっては交渉相手が、面識のある西郷隆盛であったことも大きいでしょう。

 

勝海舟は、西郷隆盛という人物の「恐さ」を知っていたと同時に、度量の大きさも知っていたのでしょう。江戸城無血開城は、決して勝海舟と西郷隆盛ふたりだけの功績ではありませんが、ふたりが果たした役割は非常に大きかったのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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