江戸城の無血開城と言えば、西郷隆盛と勝海舟の交渉が有名ですが、
影の立役者として大奥が動いていました。
今回は影の立役者として篤姫と和宮を中心とする大奥について取り上げます。
『篤姫と幾島の本当の関係は?』によれば、
篤姫の側近・幾島は13代将軍徳川家定の死後に江戸城を去りましたが、
徳川家と薩摩藩の間で何か問題があれば江戸城に入って調整役を引き受けていました。
篤姫は江戸での旧幕府軍と新政府軍との衝突を避けるために、
調整役の幾島が病を推して官軍に篤姫の手紙を届けました。
幾島という調整役がいたから篤姫は影の立役者になれました。
この記事では、江戸城無血開城について取り上げます。
後半で世界の革命と江戸城無血開城を比較して、
江戸城無血開城が稀有なケースである理由について取り上げます。
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江戸城無血開城について知ろう
大政奉還後、旧幕府軍と新政府軍が衝突しました。
最初の戦争が鳥羽伏見の戦いで、この一連の戦争のことを戊辰戦争と言います。
鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が率いる旧幕府軍は直前に大坂城から江戸に逃亡し、
新政府軍に恭順の意思を示しました。
鳥羽伏見の戦い後、陸軍総裁・勝海舟と会計総裁・大久保一翁は
徳川家の最高指揮官となり、恭順を実行に移します。
一方で、新政府側は徳川家に対して厳しい処分を断行すべきとする意見と、
処分は穏便に済ませるべきという意見が対立していました。
新政府軍の中では薩摩藩の西郷隆盛らが強硬論者としていました。
西郷は勝海舟との交渉で強硬論が無用な混乱を招くだけだと諭されて、
強硬論を改めて無血開城をすることに決めました。
女の戦い!
鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜は朝敵となりました。
救いを求めて江戸城にいた篤姫と和宮を頼りました。
篤姫らは徳川家を残すために戦争を回避するために動きます。
篤姫は幾島に託して3m近い嘆願書を西郷隆盛に送りました。
当時西郷は新政府軍の参謀として実権を握っていました。
西郷はこの篤姫の手紙を読んで涙を流したと伝えられています。
同じころ、和宮は幼馴染の公家で新政府軍の先鋒隊総督で公家の岩倉具定に手紙を送り、
江戸を戦火から守るために進軍を止めてほしいと強く訴えます。
大奥の篤姫と和宮による嘆願は江戸を戦火から守ることができ、
江戸城無血開城につながりました。
大奥の明け渡し
篤姫は江戸城を開城するにあたって、
幕臣たちに城をきれいにするようにと通達を出しました。
大奥について、篤姫は江戸城明け渡しのとき、大奥の調度品に一切手をつけず、
自分の家具も一切持たずに一橋家に移りました。
篤姫は江戸城無血開城後、女中の就職や結婚の世話をしました。
また、徳川家の跡継ぎの徳川家達の養育をしました。
篤姫は御台所の頃から面倒見の良い人だったのかもしれません。
革命における世界史の常識
ここでは世界の革命について取り上げます。
革命と言えば、世界史を勉強した読者にとって、
処刑・戦死など犠牲者が出たという印象を受けると思います。
例えば、1917年から1922年にかけて起こったロシア革命によって
ロマノフ王朝の専制政治が終り、社会主義の国ソビエト社会主義連邦が誕生しました。
ロシア革命の際、ニコライ2世一家は処刑されました。
次に、1775年から1783年までに起こったアメリカ独立戦争について取り上げます。
アメリカはイギリスの植民地でしたが、イギリス本国からの厳しい税負担で苦しんでいました。
1776年にイギリス植民地だった13州が独立宣言をしました。
次に、フランス革命について取り上げます。
1789年にバスティーユ監獄を襲撃したことがきっかけで起こりました。
国王ルイ16世夫妻の処刑により王政が廃止され、第一共和制の樹立を宣言しました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は江戸城無血開城における篤姫ら大奥の役割について取り上げました。
革命における世界史の常識で取り上げた革命と比べると、江戸城無血開城は稀有なケースと言えます。
『明治時代に英語ができた人っていたの?』で、
伊藤博文のサンフランシスコでのスピーチ「日の丸演説」において、
数世紀にわたって強固に続いてきた日本の封建制度は一発の銃弾も放たず、
一滴の血も流れず、わずか1年以内に撤廃することができました。
戦争をしないで中世の封建制度を打破できた国はあるのでしょうかと言いました。
無血で革命を成し遂げたケースはほとんどないでしょう。
日本史においても江戸城無血開城は稀有なケースかもしれません。
鎌倉幕府に移行するまでの源平合戦、鎌倉幕府から室町幕府に移行するまでの戦争、応仁の乱、
戦国時代から江戸幕府に至るまで多くの犠牲者が出ています。
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