長坂の戦いで曹操軍の精鋭部隊にド突き回された劉備たちは、命からがら江夏まで逃げ延びました。
その頃、呉の孫権も曹操について頭を悩ませていました。日の出の勢いがある曹操に降伏して曹操の配下となるか、あくまで曹操に盾突いて独立勢力として生き残る道を模索するか…。
呉の臣下のほとんどが降伏を勧める中、魯粛と周瑜だけが曹操と戦うことを訴えました。「曹操軍は水上での戦いに慣れておらず、南の風土に慣れていないので疫病に苦しむことになるでしょう。必ず勝機はあります!」
この周瑜の言葉通り、曹操自慢の数十万の大軍勢は疫病に苦しめられます。
ところで、曹操軍を苦しめたこの疫病とは一体何だったのでしょうか?今回はこの疫病の正体に迫っていきたいと思います。
南にはアブナイ病原菌がいっぱい!?
曹操軍が疫病に苦しめられたのは、呉軍が全力で曹操軍に呪いをかけたからではありません。南に位置する呉は高温多湿で、アブナイ病原菌が元気に活動できる環境になっています。
基本的にカラッと乾燥した気候の北から押し寄せた曹操軍は、アブナイ病原菌に対する耐性など無く、コロッとやられてしまったわけです。しかし、世界史を紐解いていくと、その反対に侵略者が持ち込んだ疫病によって、原住民に甚大な被害が与えられた事件も起こっています。
16世紀頃、ヨーロッパの人々が持ち込んだ天然痘ウイルスによってその当時南アメリカで栄えていたインカ帝国やアステカ帝国は滅亡に追い込まれています。ヨーロッパの人々もその代償としてというべきか、梅毒なんかを持ち帰ってしまったようですが…。
このことに鑑みると、三国時代にも魏軍によって呉にヤバイ病気が持ち込まれたのでは…?と考えることもできなくはないですよね。
しかし、赤壁の戦いでの魏軍と呉軍はヨーロッパ人と南アメリカの原住民たちほど濃厚な接触をする機会はなかったため、そのような病気の交換は魏軍と呉軍の間では無かったようですね。それどころか、北方ではなんでもなかった病原菌が南方に来て元気になり、自分が持ち込んだ病原菌によって自ら苦しむ羽目になった者も魏軍にはいた模様…。
一族のほとんどを失った張機による『傷寒論』
では、曹操軍を苦しめた疫病とは一体何だったのでしょうか?
そのヒントは、後漢末の動乱を生き抜いた医師・張機が著した『傷寒論』から得ることができそうです。
『傷寒論』は赤壁の戦いが勃発する建安年間に数百人いた一族のほとんどを疫病によって失って心を痛めた張機がその治療法を確立せんと奮起して執筆したものとされています。
張機の一族を襲った疫病は、その書の名として冠されている「傷寒」です。この「傷寒」という病気は、現代中国語では「チフス」を指す言葉になっていますが、その当時は高熱にうなされる病気全般を指していたとされています。
「傷寒」という名で一括りにされていましたが、やはり複数の病原菌やウイルスが猛威を振るっていたらしく、張機は患者一人ひとりに合った治療法を模索していたことが『傷寒論』に記されています。
三国時代の動乱期には南から北、北から南に人が入り乱れていたため、あらゆる疫病が流行していたようですね。そしておそらく、赤壁の戦いで魏軍を苦しめたのも、「傷寒」と称される疫病のうちの1つだったと思われます。
赤壁の戦いで魏軍を破滅に追い込んだのは腸チフスだった?
「傷寒」と称される疫病のうち、魏軍を破滅に追い込むことに最も貢献したものは腸チフスであったと言われています。
赤壁の戦いは冬に起こっており、冬に流行する高熱を伴う疫病といえばインフルエンザが思い起こされますが、インフルエンザのウイルスは温暖湿潤な南ではかえって威力が弱まるため、その可能性は低いでしょう。
また、蚊を媒介するマラリアなどの熱病も考えられますが、暖かい南方とはいっても冬ですから蚊の数も少なくなっていたはずですし、それほど流行したとは考えられません。他方、腸チフスは経口感染で、南方の食べなれない魚を大して下処理もせずに食べていたであろう兵士たちが感染した可能性は非常に大変高く、たくさんの兵たちの間で流行することも頷けます。
三国志ライターchopsticksの独り言
腸チフスは不衛生なものを食べることによって感染する病気で、現代でも何十万人もの命を奪っている疫病です。
遠征中で物資も限られていた曹操軍は衛生面に気を配ることなど当然できなかったでしょうし、兵たちも慣れない環境に長いこと晒されて、ただでさえ体が弱っていたことでしょう。
結果的に周瑜の言葉通り弱体化してしまった曹操軍でしたが、もしその当時腸チフスなどの疫病への対策方法が確立されていたら、魏軍が呉軍を破っていたかもしれませんね。
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