周瑜(しゅうゆ)ってどんな人?赤壁の戦いで曹操軍を破った智将軍




周瑜

 

()の武将として、孫策(そんさく)孫権(そんけん)に仕えた周瑜(しゅうゆ)(あざな)公瑾(こうきん)

 

魏曹操と魏軍と呉軍

 

三国志(さんごくし)の大勝負、赤壁の戦い(せきへきのたたかい)劉備(りゅうび)軍の諸葛亮(しょかつりょう)と共に曹操軍を破った人物です。

 

はじめての三国志全記事一覧はこちら

関連記事:【悲惨】周瑜は劉備の噛ませ犬でジャンプ台扱いだった?

関連記事:周瑜は孫策よりも名門で君主になってもおかしくなかった

 

 

周瑜の基本情報

周瑜 孫策

 

周瑜は、後漢(ごかん)で名を挙げた名家の生まれで、父や祖父もかなりの要職に就いていました。

 

周瑜と孫策

 

呉の初代皇帝孫権(そんけん)の兄である孫策(そんさくとは、幼いころから親密な友好関係を築いていて、周瑜と孫策は「断金(だんきん)」と評されるほど篤い関係にありました。また、周瑜の妻である小喬しょうきょう)は、孫策の妻である大喬(だいきょう
)
と姉妹であったため、周瑜と孫策は義理の兄弟でもありました。

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

孫策の死後は、孫権に仕えて呉のために活躍をしました。周瑜は三国志で一番イケメンと言われていて、『美周郎』とも呼ばれています。

 

関連記事:孫策と周瑜の怪しい関係は事実だったの?子不語にある逸話を紹介!

関連記事:孫策も憧れた「西楚覇王」項羽が残した伝説の戦いベスト3

 

 

赤壁の戦いへの大論争

劉備と孫権同盟

 

赤壁の戦いは、三国志を代表する戦いのひとつで、中国に流れる長江(ちょうこう)という川の赤壁という場所で、北から中国統一を目指す曹操軍とそれを阻止する孫権・劉備連合軍により繰り広げられた戦いです。

 

大船団を率いて呉を攻める王濬(おうしゅん)

 

曹操軍20万に対し、孫権・劉備軍は5万。圧倒的な戦力差で、孫権・劉備軍は不利な状況でした。そのため、孫権軍は降伏か抗戦かで意見が分かれ、大論争を巻き起こしていました。この時、周瑜は抗戦派として、降伏派の説得に臨んだのです。

 

船酔いする曹操

 

「曹操軍の水軍は戦いに慣れておらず、土地や風土の影響で疫病になる。

 

病気になった兵士

 

さらに、曹操軍の主力は最近他国の兵力を編成したばかりで曹操に従っているわけではない。」つまり、度重なる戦いと移動により疲弊している曹操軍になら勝機があると説いたのです。これにより降伏派を説得し、劉備軍と共に孫権軍も赤壁の戦いに臨むのでした。

 

赤壁の戦いを斬る!赤壁の戦いの真実
赤壁の戦い

 

赤壁の戦い

赤壁の戦い

 

周瑜は、孫権軍としてこの戦いに参加し、劉備軍の諸葛亮と共に曹操軍と対峙しました。長江の赤壁は川幅が非常に広く、水軍が主力となって戦う必要があります。そのため、両軍とも船を準備し戦いの準備を進めていました。

 

孔明

 

その準備の中で、周瑜は諸葛亮の才能を警戒し、排除しようとします。ここで周瑜は諸葛亮に「10万本の矢」を用意するように言ったのです。

 

孔明 矢

 

これに失敗すれば諸葛亮を処刑できるはず、だったのですが諸葛亮は見事用意してしまったのです。周瑜と諸葛亮の因縁は、この頃からあったのです。

 

むち打ちで裁かれる黄蓋

 

その後、周瑜は諸葛亮と共に曹操軍を火計にかけ、曹操軍を見事に壊滅させます。

 

関連記事:赤壁の戦いにモデルがあった?八陽湖の戦い

関連記事:孔明による材料も手間もなく矢を造る方法

関連記事:赤壁の戦いは計略の宝庫

関連記事:曹操「赤壁で負けてなんていないんだからねっ」

 

諸葛亮との知恵比べ

周瑜

 

赤壁の戦い後、周瑜は荊州(けいしゅう)に目を向けます。荊州は、土地は肥沃で、優秀な人材も多く、交通の要所であり、ここを制すれば戦いをかなり有利に進めることができます。

 

周瑜と孔明

 

この頃の荊州は、すでに曹操により占領されていましたが、諸葛亮も荊州に注目していたため、三陣営による荊州争奪戦が繰り広げられます。赤壁の戦いに勝利した孫権軍は、勢いに乗って荊州の一部である南郡を攻撃します。

 

周瑜

 

周瑜も南郡攻略に参加していましたが、正面決戦の際に毒矢が刺さり重傷を負います。南郡を攻略した呉に対し、劉備が孫権への会談を申し入れます。周瑜はこの機を逃さず、劉備を篭絡する作戦を提案します。

 

曹操軍の輸送車を襲う趙雲

 

しかし、諸葛亮から知恵を授かった趙雲(ちょううん)により、劉備が逃がされ失敗に終わります。

 

関連記事:赤壁の戦い後の江陵攻防戦(曹仁VS周瑜)

関連記事:赤壁の戦い後の劉備と孫権の関係はどうなったの?

関連記事:曹操最大の失敗赤壁の戦い

 

周瑜の最期

周瑜

 

その後、周瑜は蜀を攻略する口実で、荊州の劉備を殺すために準備を進めますが、諸葛亮の挑発めいた手紙により、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と叫び、憤死しました。

 

周瑜逝く

 

この時の周瑜は、36歳でした。

 

周瑜はナルシスト

 

最後の最後まで、諸葛亮には敵わなかったのです。

 

関連記事:孔明に嫉妬する周瑜

関連記事:呉の提督、周瑜は荊州争奪戦に散る

 

天下二分の計

周瑜くやしい 呉

 

三国志といえば、諸葛亮の「天下三分の計」によって魏、呉、蜀に分かれて物語が進みます。周瑜も魏に対抗するために、魏と呉による「天下二分の計」を進めます。

 

周瑜、陸遜

 

しかし、周瑜はこの計画を進める過程で、命を落としてしまうので叶えることはできませんでした。

 

曹操と周瑜

大喬 小喬 三国志当時のファッションとは!

 

赤壁の戦いは、中国統一を目指す曹操軍とそれを阻止する劉備軍と孫権軍による戦いでした。しかし、それ以外にも、曹操は孫策の妻である大喬と、周瑜の妻である小喬を自分のものにしたかったのです。

 

大喬・小喬侍らし酒を飲みたい曹操

 

曹操は「大喬と小喬を奪い取った暁には、銅雀台に住まわせたい」とまで言ったそうです。これには、周瑜も大激怒、あっという間に抗戦派になったのです。実は、これも諸葛亮の策略だったとも言われています。

 

関連記事:女好きの英雄曹操、危機一髪の大失敗

関連記事:曹操は女の敵なのかどうかを検証する・その1

関連記事:曹操が遺言で見せた女性への愛情

 

三国志ライター黒太子の独り言

黒太子

 

三国志での周瑜は、諸葛亮の影に隠れてしまっていて、華やかな活躍はあまり見ることができません。

 

周瑜

 

しかし、周瑜はいち早く諸葛亮の危険性に気づき、排除しようとした人物でした。

 

周瑜

 

その洞察力や計略においても、諸葛亮に及びはしなかったですが、かなりの能力の持ち主だと伺えます。もし、諸葛亮がいなければ周瑜によって「天下二分の計」が出来上がり、三国志ならず二国志になっていたのかもしれません。

 

老成した周瑜と諸葛亮、司馬懿の知略を巡らせた戦いも見てみたいものです。

 

はじめての三国志:全記事一覧はこちら

関連記事:周瑜はいかにして魯粛を呉に引き入れたのか?

関連記事:呉の大都督、周瑜の魅力がありあまり過ぎて困る7つの理由

 

【呉のマイナー武将列伝】
呉の武将

 




関連記事

  1. 軍事面でも才能を発揮する諸葛恪
  2. 陸遜と孫権
  3. 徐盛(じょせい)呉の将軍
  4. 孫呉(孫権・黄蓋・陸孫・周瑜・周泰) 
  5. 孫権
  6. 袁術と孫策

    デザイン担当:よりぶりん

    孫策を自分の息子にしたいと思っていた袁術

    孫堅(そんけん)の子の孫策(そんさく)が、父の死後、袁…

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA



はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“ながら三国志音声コンテンツ"

“if三国志"

“つながるはじめての三国志"

“赤壁の戦い"

袁術祭り

春秋戦国時代

PAGE TOP