2018年のノーベル生理学賞は免疫チェックポイント阻害薬二ボルマブ(商品名オプジーボ)の開発に携わった
京都大学の病理学者、本庶佑さんが受賞しました。
日本中を駆け巡ったこのニュースですが、2018年を遡る事100年前、史上初めて人工的にガンを発生させて
ノーベル賞候補に選ばれた日本人病理学者がいた事はあまり知られていません。
今回は、ガン研究に新たな地平を開いた病理学者、山極勝三郎について解説します。
※こちらの記事は、毎週水曜日午後10時25分放送のNHK歴史秘話ヒストリアをより深く楽しむ為に作成した予習記事です。
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この記事の目次
1863年信濃国上田城下に誕生する
(画像:山極勝三郎Wikipedia)
山極勝三郎は、1863年信濃国上田城下に上田藩士の山本政策の三男として生まれます。
山本家は下級武士であり薄禄でしたが、廃藩置県により家禄が廃されるとさらに生活は窮乏しました。
父の山本政策は維新後に寺子屋を開いて家計の足しにしようとしますが、1872年学制が公布されると
生徒も一人減り、二人減りしていき振るわなくなっていきます。
山本家は、それでも勝三郎に学問を学ばせて苦しい生活を楽にして欲しいという期待をかけて、貧しい生活に耐えつつ、
勝三郎を上田公立学校(高等学校)まで進学させます。
勝三郎は両親の生活苦と期待を受けて、一刻も早く立身出世し生活を楽にしようと必死に勉強したので、
学校を首席で卒業するまでになります。
恩師の説得で山極家の養子に入り医学の道へ進む
勝三郎には夢がありました、それは、世界中の人々の為になる仕事をしようという事でした。
そんな時、勝三郎の成績優秀を見込んで彼を山極家の養子に欲しいという声がかかります。
山極家は上田藩の御典医で、ずっと医者を輩出してきた家で山極家を継ぐ事は当然医者になる事でした。
しかし、医者になるなど夢にも思わない勝三郎は、「誠に有難い話ですが、、」と辞退します。
ですが、話を持ってきた勝三郎の担任、正木直太郎は諦めず、粘り強く説得しました。
「世間には医者などというのは男子一生の仕事ではないと軽蔑する者もいると聞く、
しかし、人類の不幸とも言われる病気を根絶し、人間を救える仕事は医者以外にはない
これほど尊い仕事は、世の中に早々あるものではないぞ。
山本、君の夢は世界の人々の為になる仕事をしたいという事だったな?
医者になって、病気の治療法を開発すれば世界中の病気で悩む人を救える
これは天が君の為に与えてくれたチャンスではないか!」
勝三郎は、医療に国境はなく真に人類すべてに貢献できる仕事であるという
正木の説得に感銘を受け、山極家の養子に入る事を承諾しました。
1879年の正月に山極家の養子に入った勝三郎は山極勝三郎と名を改めて、1880年東京大学予備門、1885年東京大学医学部を首席で卒業し、
1891年には東京帝大助教授、翌年にはドイツに留学し、コッホやフィルヒョウに師事して病理学者としての地歩を固めるのです。
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ガンの発生に興味を持ちウサギを使った研究で人工ガンを発生させる
ドイツ留学中にフィルヒョウの元で、細胞病理説、細胞刺激説を学んだ勝三郎は、1895年に東京帝大医学部教授に就任し病理解剖学を専攻します。
この頃、病理学教室では、教室の業務として大学病院と東京私立養育院からの死体を解剖する事になっていて
勝三郎は明治22年から明治35年までの間に3014体を解剖し、237例の癌腫を確認、そのうち107例が胃ガンでした。
その解剖を通し、勝三郎は多くの胃ガンは治りにくい単純胃潰瘍の縁が暴飲暴食による慢性反復性の刺激を受けガンになったのではという
知見を得る事になります。
当時、ガンの発生原因は不明で、主たる説に刺激説と素因説が存在していましたが、勝三郎は胃ガンの研究から刺激説を取り、
すでに煙突掃除夫に皮膚がんの罹患が多いケースが知られていた事に着目、それを証明するべく助手の市川厚一と共に
1907年頃からウサギを使って人工ガン発生の反復実験を開始します。
その方法は、ウサギの耳にコールタールを塗りつけてコールタールの刺激でガンが発生する事を証明するという地道なものでした。
しかし、このような実験はそれまで多くの病理学者が実践し、ことごとく失敗している方法でもありました。
実験動物としては、ネズミも考えられましたが、ネズミは耳が硬く、小さくなってしまうので、
よりコールタールを塗擦しやすいウサギを選んだと言われています。
当時は、野生動物の耳にガンが発生する事はないと考えられていたので、耳を選んだのです。
こうして、地道な経過観察を3年繰り返し、ついに勝三郎はウサギの耳にガンを発生させる事に成功1915年、9月25日に山極・市川の連名で
東京医学界に発表しますが、それまで多くの学者が失敗した事であり、ほとんどの医師が関心を示しませんでした。
ところが、山極の研究を踏襲して、千葉医学専門学校の筒井秀次郎がマウスの背中にコールタールを塗り付ける実験で
短期間でガン細胞を発生させる事に成功、これによりコールタールによる人工ガンの発生が世界的に認められたのです。
幻になったノーベル賞の受賞、、何故?
(画像:アルフレッド・ノーベルWikipedia)
勝三郎の人工ガン発生は、ガン研究を大きく前進させたとしてノーベル賞候補に挙げられました。
それも、1925年、1926年、1928年、勝三郎没後の1936年にノーベル生理学賞・医学賞にノミネートされます。
しかし、いずれのケースでも、遂にノーベル賞受賞には至りませんでした。
その理由は、山極の先行研究者であるデンマークのヨハネス・フィビゲルと山極の間で、
どちらが人工ガン発生の第一人者であるかノーベル賞委員会の選考審査が分かれたからです。
フィビゲルの人工ガンは、寄生虫に感染させたゴキブリをラットに食わせた結果、ガンを発生させたというもので
当時から実験について異論はあったものの独創的な手法でした。
一方の山極の研究は、煙突掃除夫が皮膚ガンを発症しやすいという従来知られていた事を実験を通して確認しただけで、
独自研究としては認められないという意見があったのです。
結果、ノーベル賞選考委員会はフィビゲルの研究に軍配を挙げ、山極の研究はノーベル賞受賞には至りませんでした。
ですが、戦後、1952年、アメリカのヒッチコックとベルは、フィビゲルの研究をやり直し、ガンとされた病変は、
ビタミンA欠乏症のラットに寄生虫が感染した際に起こる変化でガンではない事を証明します。
つまり、世界で初めて人工ガンを造ったのは山極勝三郎であった事が彼の死から22年後に確認されたのです。
それは、本来、山極の頭上に輝く筈の幻のノーベル賞でした。
自身も病や家族の不幸と戦い続けた山極勝三郎
勝三郎は、生来病弱な人であり、それに加えて若い頃に結核に罹患し何度も喀血して瀕死を経験します。
当時、結核に有効な薬はなく勝三郎は喀血すると仕事を中断し、何もせずひたすら天井板を見上げ静養するという事を繰り返していました。
死後、勝三郎の体は献体され解剖されますが、両肺は結核の後遺症で上半分が潰れ鶏卵の二倍くらいの硬い塊になっていたそうです。
そして、驚くべきことに、勝三郎の結核は自然治癒していました。
しかし、半分の肺で生活するだけでなく、研究に精力的に取り組むのは大変だったでしょう。
家庭的にも、不幸が続き、長男が一歳になるまえに病死、その後に生まれた長女も8歳の時、火事になった実家に
自分の彰状を取りに戻って火に巻かれて焼死する悲劇を体験します。
そのような自身の病気と家族の不幸を乗り越え、勝三郎はガン研究を大きく進める偉業を為したのです。
kawauso編集長の独り言
山極勝三郎は、医師でありながら生涯貧乏で、政府の予算もあまりつかなかったガン研究に全身全霊を捧げました。
温厚で真面目な人であり結核に罹患した時には、他人への感染を恐れ、常に痰壷を用意して道端には決して痰を吐かない人であったようです。
一方で勝三郎には、人間くさい一面もあり、結核罹患を契機に大好きなタバコを止めようとしますが、なかなか止められず
厳しい妻の目を盗んで一服してしまい禁煙に失敗してしまったり、
孫が勝三郎のヒゲを怖がり、近づかないので考えた末にひげを剃ってしまうなど好々爺の一面も見せています。
逆に研究となると非常に厳しく、研究者のレポートには容赦なくバツをつけて書き直させ、研究者の心構えを説くなどで
恐れられつつも慕われました。
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