足利義満はどんな人?強きを助け弱きを挫くベタな権力者


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足利義満(あしかがよしみつ)というと金閣寺(きんかくじ)というイメージや非常に権勢欲が強く天皇に成り代わろうという野心があったとも言われています。

しかし、大半のイメージは漠然としたもので、具体的に何をした人かというと源頼朝(みなもとのよりとも)徳川家康(とくがわいえやす)と違い説明しづらいのではないでしょうか?

そこで今回のはじさんは足利義満が何をした人かを分かりやすく説明します。

 

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史上最弱幕府の将軍、足利義詮の子として生まれる

 

足利義満は、1358年8月22日、京都春日東洞院(とうどういん)にあった幕府政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞継(いせさだつぐ)入道照禅(にゅうどうしょうぜん)の屋敷で

2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の子として誕生しました。

それは、祖父にあたる室町幕府の開祖、足利尊氏(あしかがたかうじ)の死後、100日後の事です。

実際の義満は長男ではなく、母の紀良子(きのよしこ)も正室ではないのですが、長男が夭折(ようせつ)した事もあり、嫡男(ちゃくなん)としての立場を得ていく事になります。

 

しかし、義満が子供の頃の室町幕府は南北朝の騒乱の真っただ中で、1361年には京都は南朝方の楠木正儀(くすのきまさよし)石塔頼房(いしどうよりふさ)の軍勢に占領され、

義詮は後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を連れて近江に脱出、義満はわずかな家臣に守られ建仁寺に逃れ、その後赤松則祐(あかまつのりすけ)の居城、播磨白旗城への避難を

余儀なくされます。

 

こんな具合で義満の幼少期の幕府は、お世辞にも盤石とはいえない状況でした。

幸い、翌年には足利義詮は京都を奪還し、義満も帰還しています。

 


 

家督と将軍職を継ぎ幕府と京都支配を強化

 

1367年、義満9歳の時に父、義詮は危篤になります。

まだ9歳と幼い義満の為に義詮は管領(かんれい)細川頼之(ほそかわよりゆき)を管領として義満の後見・教導を委託しました。

1369年11歳で足利義満は将軍職に就き、足利一門の守護大名と細川頼之が義満に帝王学を施していきます。

 

政治は管領である細川頼之が主導し、応安大法(おうあんだいほう)を実施して、土地支配を強化し、京都や鎌倉の五山制度を整えて

仏教の序列を確立して宗教統制を強化します。

 

この応安大法とは、ザックリ言うと、南北朝以来、頻繁に年貢の徴収が起きていた荘園の状態を整理して

守護代と本所(武家以外)の荘園からの年貢の取り分を半々と定めたものです。

これにより、朝廷や寺社勢力は年貢の半分を保護された一方で、武家の収入は減少しました。

逆に、朝廷や寺社が所有する以外の荘園では、武家が武力を盾に年貢の半分を本所に渡す事に応じなかったので、

本家の没落はますます進んでいきました。

 

細川頼之は、さらに南朝最大の勢力圏だった九州に、今川貞世(いまがわさだよ)大内義弘(おおうちよしひろ)を派遣して南朝勢力を弱体化し北朝の勢力を強化する事に成功します。

 

さらに、頼之は京都の支配を強化すべく、1370年延暦寺(えんりゃくじ)及びその支配下の諸勢力と構成員に対する取締権を得て、

大車輪の活躍をしますが、実権の無い義満は16歳で日野家から日野業子を正室に向かえました。

しかし、義満は何もしていないわけではなく、自分の権力を代行する守護大名や管領たちの仕事ぶりを見ていました。

老獪な義満の手腕は、こうして蓄積されていったのです。

 

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反細川氏の勢力を利用し権力を取り戻す

 

1378年、20歳になった足利義満は、邸宅を三条坊門より、北小路室町に移転します。

この後から北小路室町は花の御所と呼ばれ、足利氏の興した幕府は後世室町幕府と呼ばれるようになったのです。

 

1379年康暦(こうれき)の政変が勃発、宗教対立や南朝征討で失敗が続いた細川頼之に対して、守護大名、斯波義将(しばよしゆき)土岐頼康(ときよりやす)等がクビを要求し兵を挙げます、

義満は圧力に屈して頼之を罷免し、頼之は屋敷を焼いて四国に落ち、恭順の意を示して出家しました。

 

これにより、室町幕府では大幅な人事刷新が起きて、斯波派の守護大名が加増され、細川派が失脚します。

しかし、実際には、この政変の黒幕は足利義満であったようで、斯波派と細川派を対抗させて、将軍権力の奪還を画策したものでした。

これは、室町幕府の時代に何度も繰り返された、出る杭を打って引っ込め、勢力均衡を図るベタな手法です。

 

こうして自立した義満は、京都と幕府に二分されていた京都市内の行政権や課税権を幕府に一元化同時に守護大名の軍事力に対抗しうる

1万人規模の将軍直属の常備軍、奉公衆(ほうこうしゅう)、そして、将軍に忠実な実務官僚組織、奉行衆(ぶぎょうしゅう)を組織します。

足利義満は、守護大名同士の軋轢(あつれき)の間で右往左往する従来の調停役の将軍ではなく、自前の武力と、行政官僚を持ち

自己完結する独裁君主としての将軍を確立しようとしました。


 

足利義満、寺社勢力を味方につけ、武家と公家で位人臣を極める

 

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として武家社会の頂点に立った義満は今度は朝廷に接近していきます。

朝廷の長老である二条良基(にじょうよしもと)の支援を受けつつも、武家としての豪胆さも発揮しました。

最も有名なのは、平安時代から朝廷を悩まし続けた興福寺(こうふくじ)神木入洛(しんぼくにゅうらく)を撃退した事です。

※神木入洛とは、神木を前面に立てて神罰が下ると脅しながら朝廷に自分達の要求を呑ませる強訴(ごうそ)の事

 

治天(ちてん)の君、白川法皇の時代から、朝廷を悩ませた興福寺の強訴に対し、藤原氏の公卿達は自分達の先祖が興福寺に祀られている事から

その祟りを恐れて出仕を自重し興福寺に迎合しました。

しかし、義満は自分は源氏である事を理由に出仕を続け、逆に御遊始、作文始、歌会始等を大々的に再興して興福寺を威圧します。

 

義満「わしの氏神は八幡様じゃ!興福寺なんぞ関係あるかいな!」

 

興福寺は神罰など屁とも思わない義満に屈し、寺社領を奪った十市遠康(といちとおやす)討伐の約束以外を取り付ける事が出来ず空しく奈良に戻りました。

これは史上初めて寺社勢力が世俗の権力に完全敗北した瞬間となります。

 

ですが、義満は一方的に寺社勢力を圧迫するだけではなく、強訴は認めないかわりに幕府と興福寺、延暦寺と直接交渉のチャンネルを設けたり、

寺社の建立などを援助するなどして硬軟取り混ぜた対応をし、逆に寺社勢力を味方につける事に成功していきます。

 

義満「無法な強訴はあかん、せやけど、武力や神罰抜きで話し合いたいちゅうなら幕府かて鬼やないで・・」

 

自信を失っていた延暦寺や興福寺は以前とうってかわり融和的な面を見せた義満に好意を持ちました。

 

「うちらは、あんなひどい事をしたのに、将軍さんはエエ人や」そんな所でしょう。

完全に優位に立った義満は、これ以上寺社勢力を追い詰めず、手を差し出し逆に仲間に引き込んだのです。

 

こうして寺社を味方につけた義満は、次々と官位の昇進を重ね、内大臣、左大臣と父や祖父を超える官位を得て、

1383年には武家としては初めて源氏長者(げんじのちょうじゃ)となり淳和奨学両院別当(じゅんなしょうがくりょういんべっとう)を兼任、准三后宣下(じゅんさんこうせんげ)を受け

太皇太后、皇太后、皇后の三后に准ずる扱いを受けて武家と公家の両者の頂点を極める事になります。

 

kawa註 源氏長者とは

源氏長者は、源氏一族全体の氏長者の事を指しています。

原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となり、

源氏のなかでの祭祀(さいし)、召集、裁判、氏爵の推挙などの権利を持っていました。

もっとも、有名なのは、藤原長者と源氏長者で、藤原氏は摂政・関白を歴任したものが

藤原長者になる決まりで、源氏長者は江戸時代徳川将軍が独占しています。

一族を統率するのに必須の称号でした。


  

 

 

守護大名潰しと南北朝の終焉

 

権力基盤を強化したい義満は、強大化した守護大名も介入の理由をみつけては潰します。

康暦の政変の立役者である、土岐頼康が死去した後の内紛で土岐氏を討伐、

1391年には、11か国の守護を兼ねて六分の一殿と言われた大守護大名、山名氏清(やまなうじきよ)を挑発して挙兵させこれを討伐して

所領を大幅に没収し3か国の守護にしています。

さらに、西国の雄で日明貿易でしこたま儲けた大内義弘も、自分に盾突いてきたので、色々、挑発的な扱いをして挙兵させ、

1399年にこれを戦死させました。

 

しかし、戦国時代とは違い、義満は守護大名を滅ぼしはしませんでした。

あくまでも出る杭を打つだけで、所領を削って弱らせ自分に従順になれば許して手駒にしていきます。

こうして、守護大名を適当に凹ませ、自分に味方する可能性を残しつつ室町将軍が一強になるように義満は動くのです。

 

一方、南北朝の騒乱も南朝方の勢力の凋落は著しく、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落、勝利は北朝に大きく傾きました。

そこで、義満は大内義弘(おおうちよしひろ)を仲介に南朝方と交渉を進め、南朝と北朝の天皇が、交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)

諸国の国衙領(こくがりょう)を全て南朝(大覚寺統)の所有とする事を条件に和睦案を提示、後亀山天皇(持明院統)は、この和睦案を受け入れて、

三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて、南朝が解消される形で1392年、58年間に亘った南北朝の時代を終わらせます。

義満は、父や祖父が置いていった負の遺産を見事に収拾してみせたのでした。

 

1393年には、義満の朝廷支配に最後まで抵抗し院政を敷いていた後円融上皇(ごえんゆうじょうこう)崩御(ほうぎょ)、これで最後の障害が消えた義満は、

将軍職を嫡男の足利義持(あしかがよしもち)に譲り隠居を表明しますが、依然、大御所として政治の実権は握り続けます。

 

同年、義満は平清盛(たいらのきよもり)以来、二人目の従一位太政大臣(だじょうだいじん)に昇進、1395年には、出家し道義と号します。

37歳の若さでの出家は唯一残された寺社勢力で頂点を極める為と明王朝との勘合貿易(かんごうぼうえき)の為でした。

 

日本国王の称号を建文帝より受け勘合貿易を開始

 

足利義満は若い頃から明王朝への憧憬(あこがれ)を深く抱いていました。

その証拠としては、1394年に行われた改元の議の出来事があります。

義満は明の洪武帝の治世にあやかり、日本の元号にも洪の字を使うように工作しますが、洪の字は洪水に繋がり不吉であると公家達が反発して

失敗したのです。

 

それで機嫌を損ねた義満は、代わりに定められた応永の元号を自身が生きている間は頑なに変えずその為に応永は35年と

明治以前の元号では最も長い元号になりました。

もっとも、これには異説もあり、義満ではなく子の義持が変えさせなかった説もあります。

 

義満は明との直接の交易を望み、1374年に使者を派遣しますが、当時明朝は1370年に認定した、南朝の懐良親王(かねよししんのう)

日本国王良懐(りょうかい)として認めている立場でした。

そこで、明は義満を正式な日本国王とは認めず、話は流れてしまいます。

 

また、明王朝は、天皇を日本の支配者(国王)とみており、天皇の家臣に過ぎない義満を国王とは認定できないという態度を取っていたので、

義満は将軍職を息子に譲り准三后に、さらに出家して天皇からも無関係と強調します。

そして、南朝が完全に没落して北朝に吸収された事により、明王朝の態度も軟化し、1401年日本国准三后源道義(じゅんさんこうみなもとのどうぎ)として

明の建文帝(けんぶんてい)から冊封を受け1404年から勘合貿易を開始するのです。

 

当時の日本は聖徳太子以来、中国王朝から冊封を受けずに遣唐使なども知識の吸収のみに徹していた事から

義満は日本を売ったと考える公家も多く内心不満でしたが、義満の権勢の前には大っぴらな批判は出来ませんでした。

しかし、江戸時代に盛んになった水戸学の影響で、義満は売国奴として扱われるようになります。

 

また、1397年、義満は西園寺(さいおんじ)家から京都北山の北山第を譲り受け舎利殿(金閣(きんかく))を中心とする山荘を造営します。

1399年からは、本格的に移り住み、活動の拠点にしていきました。

ここでは、武家様、公家様、唐様の3つの文化が融合、猿楽(さるがく)を発展させた(のう)を産みだした観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)が義満の庇護(ひご)の元で文化を発展させていきます。

 

義満は、高い建造物を建てるのが好きだったらしく、1399年には足利家の菩提寺、京都相国寺に八角七重塔という高さ109メートルの高層建築物を

建てています、これは以後、500年間、日本で一番高い高層建築物でした。

こちらは4年後に落雷で焼けますが、義満は翌年には同規模の北山大塔を金閣寺の付近に建てたそうです。

 

お前が酒に税金かけたんかい!

 

足利義満には武家でありながら経済に聡い人であり、種々の税収倍増計画を行いました。

例えば義満は酒屋に酒屋役という税金を課して酒壷10壷以上を保有する酒屋に対して、一壷100文(一万円)の課税をしています。

実は、酒税自体は、鎌倉時代の中期から、流通が便利になり各地で酒屋が出来てから主として公家勢力が徴収していました。

なんと朝廷は造酒司(みきつかさ)という酒税徴収の専門職まで設置して、積極的に酒税を取っていた程です。

逆に、鎌倉幕府はストイックな人が多かったのか、酒は人間を堕落させるとして禁酒令を出していました。

室町幕府は、基本鎌倉幕府の方針を踏襲しましたが、南北朝の騒乱で全国から順調に年貢が入らない一方で、

恩賞やら兵糧の徴収やらで軍事費が増大したので、酒税を容認する方向に踏み切ります。

 

しかし、幕府が酒税を徴収するとそれまで税を徴収していた寺社や朝廷が猛反発していきます。

義満は強大な軍事力を背景にこれを押し切り、1393年に洛中辺土散在土倉并酒屋役条々(らくちゅうへんどさんざいどぞういさかややくじょうじょう)という法令を出したのです。

これにより、それまで酒税で潤った延暦寺のような寺院の徴税は禁止され、朝廷の造酒司の徴税も最低限に制限されました。

こちらの酒税、室町幕府の重要な財源になり、室町末期まで範囲を拡大しながら続けられたばかりでなく

なんと室町幕府を滅ぼした織田信長(おだのぶなが)も、しれっと真似していたそうです。

酒税は江戸幕府も、その後の明治政府も、手っ取り早く徴収できて、反対が少ない税金として増税に増税を繰り返していきます。

「税金が嫌なら飲まなきゃいいじゃん」という理屈ですが、飲兵衛(のんべえ)の弱みをついたヒドイやり方ですね。

 

1408年49年の波乱の生涯を閉じる

 

1408年、4月27日義満は病に倒れました、病状は重く憶測を回避する為に見舞客にも対面しなかったようです。

4月29日一事は回復しますが、5月1日には再び悪化します。

足利義持は、見舞いの使者を送ると共に諸寺に病気平癒の祈祷を命じました。

5月4日に義満は危篤になり、昼頃には死んだかのように見えましたが、夕方には蘇生、5月5日には平静を保ちます。

しかし、5月6日に再び危篤となり同日死去しました。

 

後継者である足利義持は、義満と明確に仲が悪く、義満存命中は将軍でもお飾りに過ぎませんでした。

その鬱憤を晴らすように明との勘合貿易を中止し国交も断絶、義満の政策もことごとく否定し、義満の住まいだった豪華な北山第も金閣を除き、

全て破壊してしまいました。

また、義満が偏愛した二男の義嗣(よしつぐ)が出奔すると謀反を企てたとして、これを殺害しています。

 

義満は9歳から将軍となり、在職は40年に及び、室町幕府の全盛期を築きました。

息子の義持は、父への反発から守護大名の紛争の調停など以前の将軍に回帰、義持が死ぬと、義満の息子義教(よしのり)や、孫の義政(よしまさ)は、

再び将軍専制を志向しますが、義満程の政治手腕は望めず、室町幕府の黄金時代は戻ってきませんでした。

 

kawauso編集長の独り言

 

足利義満の性格は簡単に言うと、強きを助け弱きを(くじ)くなのだそうです。

義満は強い者には下手に出て、弱い者には強気に出る性格であり、それが義満の権力を維持し室町幕府の黄金期を築いた元だと言われます。

しかし、一方で義満は時間に厳しい人物であり、遅刻する人間が大嫌いだったようです。

それを考えると、義満は己を抑制し、自分の勢力が弱い間は全てを我慢して強者に迎合し

いざ、自分が優勢になるや、相手を徹底してやっつけるという我慢が出来る人だとも言えます。

 

歴史上の人物には大事な時の辛抱が足りず、没落の道を辿った人は多いですが、

義満は、その辛抱が効くという長所が存在しました。

それが長期政権を可能にし、室町幕府の全盛期に繋がったのでしょう。

 

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