(画像:竹簡Wikipedia)
1975年、湖北省雲夢県睡虎地で戦国時代末期~漢代初期の古墓群が見つかりました。
その古墓の一つから、大量の竹簡が出土しました。
それらは睡虎地秦簡と呼ばれ、中には秦の時代の法律に関する文書がたくさん含まれていました。
戦国時代に法治主義によって国を充実させ、他国を圧倒して天下統一を果たした秦帝国。
統一後には、新しい国土に法治主義を徹底させることができずに滅んだ秦帝国。
その秦帝国の法治主義を支えた司法マニュアルを、現在でも読むことができるのです!
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末端の官吏の墓から出てきた副葬品
睡虎地では何十もの古墓が見つかっており、注目の司法マニュアルは十一号墓と名付けられたお墓からでてきました。
被葬者の棺桶の中に副葬品として大量の竹簡が入れられていたのです。
このお墓の被葬者は「喜」という人物で、その地域の県の官吏でした。
始皇帝より三歳年上です。
戦国時代末期に生れ、秦の天下統一からまもなく亡くなりました。
「喜」が官吏として活動していた頃には、この地域はすでに秦の領土になっていました。
見つかった文書には、秦の官吏としての心がけを書いたものや、法解釈についての問答集などがありました。
それらを読めば始皇帝の生きた時代の法治主義がどのようなものであったか知ることができるため、たいへん興味深い史料です。
Q&A形式の司法マニュアル
睡虎地秦簡には数種類の書物があります。
法の条文が書かれた「秦律十八種」、「喜」の人生の個人的な出来事や政治上の出来事が書かれた年表「編年紀」、
官吏としての心構えが書かれた「為吏之道」、などなど。
それらのうち、明徳出版社から出ている『睡虎地秦簡』(松崎つね子)という本では「法律答問」という書物の翻訳を読むことができます。
少し読んでみましょう。
甲は乙を教唆して強盗殺人をやらせ、一〇銭を与えた。
乙の背丈はまだ六尺に満たなかった。甲は、何の罪になるか?
車裂に処される。
(松崎つね子『睡虎地秦簡』115ページ)
Q&A形式ですね。とても分かりやすいです。
甲は強盗殺人の実行犯ではありませんが、車裂きになるそうです。
秦の時代にはすでに「教唆犯」という概念があったことが分かりますね。
少年法の概念?身長六尺とは
もう一つ読んでみましょう。
甲が牛を盗んだ。牛を盗んだ時、甲の背丈は六尺(約一・三八メートル)であった。
繋いで一年のち、また測ったところ、背丈は六尺七寸(約一・五四メートル)になっていた。
甲は何の罪になるか?
完城旦に処される。
(松崎つね子『睡虎地秦簡』75ページ)
最初の事件とは別の話なので、甲というのも別の人のことです。
『睡虎地秦簡』の松崎つね子氏の注釈には次のようにあります。
「古時一般に男子十五歳は身長六尺と見なされた、孫詒譲『周礼・正義』巻二十一に詳しい。
秦簡に、しばしば『六尺』・『六尺に盈たず』とあるのは、六尺が刑<法的責任>を問う際の背丈の境界だったからであろう」
少年には刑を加えない、なんていう考え方もあったようですね。
最初に読んだ教唆犯のケースも、もしかすると実行犯の身長が六尺以上だったら何か扱いが違うのかもしれませんね。
三国志ライター よかミカンの独り言
睡虎地秦簡を見ると、想像以上に現代的だなという印象を受けました。
現場の官吏たちは、「法律答問」のようなマニュアルを参照しながら条文を解釈して裁きを執り行っていたのですね。
古代中国のお墓の副葬品には、被葬者が死後の世界で生活する時に必要になるものが入れられました。
「法律答問」と一緒に眠っていた「喜」は、あの世でも仕事をするつもりだったのかもしれません。
棺桶に直接入れられたということは、故人にとってよほど身近で思い入れのあるものだったのでしょう。
そういう人たちが秦の法治主義を支えていたと想像すると、ちょっぴりジーンとしました。
参考文献:
松崎つね子 『睡虎地秦簡』 明徳出版社 2000年7月30日
古诗文网 「睡虎地秦墓竹简」 https://www.gushiwen.org/guwen/shuihu.aspx (閲覧日2018年10月23日)
※私はまだ拝んでいませんが、「秦律十八種」「效律」「秦律雑抄」の訳注も出ています。
工藤元男 『睡虎地秦簡訳注 -秦律十八種・效律・秦律雑抄-』 汲古書院 2018年5月6日
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