戦国時代に大活躍し、現在でも人気のある戦国武将たちですが、当時医学はまだそれほど進んでいなかったため、その死因ははっきりとは分かっていないことが多いです。その中でも、武田信玄の死因は胃がんまたは結核、そして上杉謙信の死因は脳溢血であったとされています。戦で命を散らすイメージが強い戦国大名ですが、必ずしも戦場で亡くなっていたということではなく、病気で命を落とすことも多々あったのです。
戦国大名の先駆け、北条早雲の死因は?
では、戦国時代初期に頭角を現し、相模一帯を平定するという偉業を成し遂げた北条早雲の死因は、いったい何だったのでしょうか?実は、早雲の死因は討死でも病気でもなく、老衰であったとされています。相模を平定した早雲は、家督を長男に譲り、当時としては長寿であった63歳で亡くなりました。一説には、87歳まで生きたとも言われています。どちらにしても、「人間50年」といわれた戦国時代を生きた武将としては、かなり長生きであったということができるでしょう。ちなみに、武田信玄は52歳、上杉謙信は48歳で亡くなっています。では、北条早雲は他の戦国武将と比べて長生きだったのでしょうか?
早雲はピンピンコロリで寿命を全うした戦国大名だった
戦国武将の死因には、戦で亡くなったケースを除くと、高血圧が密接に関わっていることが多いです。また、現在でいう生活習慣病で命を落とした戦国武将も数多くいます。北条早雲よりももう少し後の時代に活躍した徳川家康も、彼自身が健康管理に気を使っていたにもかかわらず、胃がんによって亡くなったとされています。やはり、相当なプレッシャーを抱え、ストレスが溜まっていたのでしょうか?
しかし、戦国武将のひとりである北条早雲は、老衰で亡くなったというだけでなく、とても穏やかな死を迎えたそうです。早雲が亡くなったのは、まだ武田信玄も生まれていない1519年のことでした。7月2日、三浦三崎で舟遊びをしている最中に倒れ、静岡県伊豆の国市の韮山城に運ばれると、そのまま回復することなく、1か月近く経った後に亡くなったそうです。
相模一帯を平定し、嫡男である北条氏綱に家督を譲った早雲にとって、この世で思い残すことは何もなく、大往生であったのではないでしょうか?500年近く前にその生涯を閉じた早雲ですが、その生き方を通して、現在の私たちも長生きの秘訣を探ることができるのではないでしょうか?
早雲が長生きできた秘訣とは?
早雲が戦国時代において長生きをすることができた理由のひとつとして、彼が若い頃に禅宗の教えを学んでいたということが挙げられます。禅宗の教えでは、食生活をはじめとする日々の生活を厳格に律しており、実際禅宗の僧侶は85〜108歳と、物凄い長寿であることも珍しくはないのだそうです。
鎌倉時代、禅宗を日本に持ち込んだ僧侶である栄西は、当時の日本人の平均寿命の3倍も長生きしたようです。戦国武将、というとどうしても血気盛んになりがちですが、禅宗の教えを守り、厳しく生活を律していた早雲は、現在でいうところの自己コントロールができていた人物であったといえるでしょう。
戦国ライター星野まなかの独り言
早雲の三男で箱根湯本の早雲寺院主となった北条長綱(幻庵)は96歳の最晩年まで一族の長老として重きをなしていました。歳を取っても寝たきりにならないというのは、現在から見てもとても大切なことです。どうやら、北条家には長生きの遺伝子があったことは間違いなさそうです。もともとの遺伝的要因に加えて、きちんと生活を律していたというところが、早雲が戦国時代という乱世においてピンピンコロリを成し遂げた秘訣なのかもしれません。
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