英雄たちが群雄割拠した三国時代。彼らはいつも戦に身を投じていて娯楽に励む暇さえも無かったのではないかと思う人は多いと思います。しかし、彼らは意外と色々な遊びに興じていた様子。今で言うところの囲碁だったりスリッパ飛ばしだったり…。…スリッパ飛ばし!?
実は、そんな小学生の遊びのようなものが人々の間で流行っていたのだそう。その名も撃壌。今回はその「撃壌」がどのようなものであるかをご紹介したいと思います。
呉の盛彦が詠った「撃壌」
三国時代には呉に仕え、その後呉が晋に飲み込まれた後は晋に仕えた盛彦という人物がいました。彼は詩文に秀でた人物だったようで、「撃壌賦」という詩を作っています。衆戯の楽しみ為るを論ずるに、独り撃壌のみ娛たるべし風に因りて勢いを托し一つに罪して両つを殺す。
民衆の遊戯の楽しいものを論ずる際にはただ撃壌だけが面白い。風によって勢いをつけて片方に罪を着せてそのどちらも殺してしまう。…撃壌の遊びが何より面白いというのはなんとなくわかりますし、きっと撃壌という遊びが何たるかを語っているということもわかるのですが、罪だの殺すだのだのという物騒な言葉が並んでいて盛彦のこの詩では結局「撃壌」がどんな遊びかわかりませんね。
一体「撃壌」とはどんな遊びなのでしょうか…!?
「撃壌」はどんな遊び?
「撃壌」とは、大昔、伝説の尭帝の時代には既に世の人々に親しまれていた遊びなのだそう。
ゲタを地面にさし、30~40歩離れたところからもう片方のゲタを投げて地面にささったゲタに当てるというスリッパ飛ばし兼的当てのようなゲーム。現代のスリッパ飛ばしは足で飛ばさなければなりませんが、手で飛ばせるゲームだったということで難易度はそれほど高く無さそうですね。そしてどうやら地面にさされた方のゲタは罪人にたとえられたのだそう。
そのために盛彦は「一つに罪する」と詠っていたのですね。一方、「両つを殺す」ですが、ぶつけた方もぶつけられた方も壊れるということでしょうか…?もしそうだとしたら想像以上に激しいゲームだったと考えられますね。実はこのゲームは遥か昔に人類が農耕や牧畜ではなく狩猟によって生活していた頃、石などを投げて遠くの生き物を倒していたことを起源にしているのではないかと言われています。そんなわけで、両方のゲタが壊れるほどの勢いが要されるのも当然といえば当然なのかもしれません。
ところが、この「撃壌」という遊びはそもそもおじいちゃんたちの間で始まったのだとか。ゲートボール感覚だったのでしょうか…?こんな激しい遊びをしていたなんて大昔のおじいちゃんたちは本当にすごいですね。
曹植も「撃壌」を詠った
撃壌という遊びは三国時代には中国の至るところで行われていたらしく、魏の曹植も「名都篇」という詩に詠んでいます。
名都に妖女多く、京洛少年を出す。宝剣が千金に直し、被服は麗にして且つ鮮やかなり。鶏を東郊の道に闘わせ、馬を長楸の間に走らす。馳騁未だ半ばすること能わざるに、双兔我が前を過る。
弓を攬りて鳴鏑を捷み、長駆して南山に上る。左に挽きて因りて右に発し、一たび縦てば両禽連なる。余巧未だ展ぶるに及ばず、手を仰ぎて飛鳶を接う。観る者は咸善しと称し、衆工我に妍を帰す。帰り来りて平楽に宴し、美酒斗十千あり。
鯉を膾にし胎鰕を臇にし、
鼈を炮き熊蹯を炙る。
儔に鳴き匹侶に嘯き、
列坐長筵を竟う。
連翩として鞠壌を撃ち、
巧捷惟れ万端なり。
白日西南に馳せ、
後継攀むべからず。
雲散して城邑に還り、
清晨に復た来り還る。
曹植をはじめとする貴公子たちが1日中遊びに興じ美食を楽しむ様子が描かれているこの詩にも「鞠壌を撃つ」という言葉が見えます。この言葉は「鞠を蹴ったり壌を撃ったりする」すなわち「蹴鞠をしたり撃壌をしたりする」と解釈されます。魏の貴公子たちの間でも「撃壌」が楽しまれていたということが窺えますね。
三国志ライターchopsticksの独り言
最初は暇な老人たちの間で行われていたという「撃壌」がいつの間にか若者たちにも遊ばれるようになったというのは何だか面白いですよね。木片があれば誰でも手軽にできる遊びなので皆さんも機会があれば是非やってみてくださいね。
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