天皇の先生になった小泉信三、象徴天皇とは何か「はじ三ヒストリア」


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現在の年号平成は今上天皇(きんじょうてんのう)の譲位により2019年の4月に終わります。

平成は31年で終り、来年の4月からは、新しい元号と新しい天皇が即位する事になります。

そんな譲位される今上天皇の皇太子時代に先生の役割を担った人物がいました。

慶応義塾の塾長だった小泉信三(こいずみしんぞう)です。

 

新しい時代の象徴天皇とは何か?そして、世紀のご成婚にも大きな役割を果たしたと言われる小泉信三。

彼が天皇に与えた影響について、はじ三では、歴史秘話ヒストリアよりも、さらに深堀して解説したいと思います。

 

こちらの記事は、12月12日午後10時25分から午後11時10分放送予定のNHK歴史秘話ヒストリア

天皇の先生になった男、小泉信三「象徴」とは何かの先行記事です。

こちらを読んで本放送を見る事で理解がより深まると思いますよ。

 

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小泉信三の経歴

画像:小泉信三Wikipedia

 

小泉信三は、旧、紀州藩士小泉信吉と妻千賀との間に第三子として生まれました。

幼少期に父を亡くしますが、父が福沢諭吉(ふくざわゆきち)の直接の門下生だった縁で晩年の福沢に目をかけられ福沢邸に一家が同居していた時期もあったようです。

 

1910年、慶應義塾大学部政治科で福田徳三(ふくだとくぞう)の指導を受けて卒業。

慶応義塾の教員になり、1912年に研究の為に欧州に留学し、イギリス、フランス、ドイツで学び1916年(大正五年)に帰国し慶応義塾大学教授となり

デヴィット・リカードの経済学を講義します。

思想的には自由主義を論調とし、共産主義・マルクス経済学に対し徹頭徹尾(てっとうてつび)合理的な批判を加えました。

 

1933年(昭和8年)には、慶應義塾大学塾長に就任し、リカアドオを研究した学位論文により経済学博士になり1943(昭和18年)年には、

帝国学士院会員に選出されました。

大東亜戦争では、海軍主計大尉だった一人息子の小泉信吉(こいずみしんきち)を亡くし、自身も東京大空襲で焼夷弾(しょういだん)による火傷を負います。

その後、1947年(昭和22年)、慶應義塾大学の塾長を正式に辞任しました。

 

1949年、東宮御教育常時参与に就任、皇太子明仁親王の教育係として、ジョージ五世伝や福沢諭吉の「帝室論(ていしつろん)」などを講義し、

戦後の象徴天皇としての帝王学を説きました。

今上天皇は小泉信三の教えに大きな影響を受けたと言われています。

 

出典:Wikipedia

 


 

今上天皇に影響を与えた象徴天皇についての教え

 

 

小泉信三は自由主義者でしたが、彼の自由主義は徹底した立憲主義に貫かれていました。

立憲主義とは法律を神棚に祀って有難がることではありません。

市民自体が、自身の意思の表現として法を権威として重んじ、法を護り、必要に応じて法を変え、これを蔑ろにする存在に対して

無関心であってはならないという意味での立憲主義でした。

 

そこには、小泉が体験した戦前、そして戦後日本人に対する危機意識がありました。

日本人は明治維新後もお上=法律という意識が抜けず、お上が法を侵しても自分に不利益がない限り危機感を覚えず盲従し

同時に自分達も罰がない限りは平気で法を破るという前近代の村社会の国民だったのです。

 

それこそ、天皇大権を伝家の宝刀に議会政治を形骸化させて暴走した軍部を国民が止めようとせず、

むしろ、分かりやすく直線的な軍部のスローガンを熱狂的に支持した事により法が無視され誰も軍部をコントロールできなくなり

敗戦の惨禍(さんか)を招いた事への反省もありました。

 

小泉は何よりも法を順守し、天皇も新憲法においては法の支配下に置かれる事を重視しました。

当時の日本社会は、マルクス主義史観全盛で国民主権の新憲法と君主である天皇は両立しないという意見も多くありましたが、

小泉はイギリスでは国王も法を守る事により、国民と王は対立せず、むしろ親しく共存するという持論を持っていました。

今上天皇は、そのお言葉の中で「憲法を守り、国民と共に歩む皇室でありたい」と常々仰っていますが、

その言葉の中には、小泉信三が説いた象徴天皇の教えが活きているのです。

 

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人に対して思いやりのある人を選びたい皇太子の決意

画像:正田美智子Wikipedia

 

小泉信三の存在感は、皇太子だった明仁親王のご成婚にも影響をあたえる事になりました。

結婚適齢期を迎えた皇太子でしたが、なおも血統を重視する宮内庁では、旧華族や元皇族が皇太子妃(こうたいしひ)候補に挙がっていました。

しかし、それに対し、皇太子はこのような要望を小泉に伝えていたそうです。

 

「自分は生まれからも周囲の環境からも、世間の事情に疎く、人に対する思いやりの情に薄い恐れがある

どうしても、そのような人情に通じて思いやりのある人の助けを得なければならぬ」

 

小泉は皇太子の意見に最大限に配慮し平民出身の正田美智子(しょうだみちこ)が妃に選ばれたのです。

国民の大半は、この決定を歓迎しましたが、一部には皇室に平民の血が入れば皇室は終わるという意見や一部の右翼団体が

結婚を辞退するようにという脅迫状を正田家に送りつける、またはご成婚パレードをぶち壊すような不穏な噂が流れたりもしました。

もちろん、袖にされた旧華族や元皇族にも、決定に不服を感じる人々が大勢いたのです。

ですが、国民と天皇の幸福な統合、国民と共に歩む皇室という強い信念は大多数の国民に支持されました。

 

皇后となった美智子妃は、より国民に寄り添う姿勢を今上天皇に示し、例えば、それまで、被災者の話を聞く時にも立ったまま対応していた天皇は、

美智子皇后が膝を折り被災者と同じ目線で、話を聞く様子に感銘を受けて、自身もそれに(なら)うようになったのだそうです。

象徴天皇は、戦前のように決して国民から乖離(かいり)してはならず、法を守り、共に歩む存在であるべきだという小泉信三の象徴天皇制への想いは、

現在の皇室にもしっかりと受け継がれているのです。


  

 

 

kawauso編集長の独り言

 

自由主義者である小泉信三は、個人の自由は法を守る事によって担保されると考えました。

法を超越する存在はあってはならず、国民も天皇も法を順守し、自らの宝として守り維持し必要ならば変えていく事で、支配と被支配の対立構造を

乗り越えていけると考えていたのです。

このような小泉の考えは、現在でも多くの国民に支持されています。

ほとんどの国民は、皇室がある事に違和感を持たず日本という国で共存しているからです。

 

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大和朝廷

 


 

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