【鉄と日本の二千年史】技術立国の先駆け鉄砲を大量産した日本

2020年2月24日


 

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荘園(しょうえん)の誕生で、食糧増産ブームが起き鉄の需要が民間でも高まると、それまで大和朝廷に隷属(れいぞく)していた鉄の職工たちは荘園に逃走。

荘園に逃げ込む鉄の職工達

朝廷はやむなく半奴隷の身分から職工たちを解放します。こうしてフリーランスになった職工は、職人となり全国に散らばり良質な砂鉄を探して鉄を製造していきました。

遣唐船(奈良時代)

一方で飛鳥から奈良時代に渡来してきた渡来人職工は鋳造(ちゅうぞう)技術のような当時の日本では珍しい高い水準の製鉄技術を駆使して、仏像や仏具、奈良や鎌倉の大仏のような巨大な鋳造仏を残していきます。

攻め寄せる蒙古兵(モンゴル)

 

その後は、元寇や南北朝のような騒乱で、鉄の需要が高まると、幕府や朝廷は職人を保護し鉄の生産力の技術水準の向上にテコ入れし、輸入するばかりだった日本の鉄産業は、室町期には海外に日本刀を輸出するまでになっていくのです。

種子島を目指す衛温

やがて、南蛮から種子島に鉄砲が伝来、日本人はただちにこれを国産化すべく知恵を絞り技術を磨いていくのでした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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特権を得た鋳物師

水月観音像(仏像)

 

鎌倉時代から室町時代にかけて、大きく技術水準が発展したのは鋳物(いもの)でした。すでに奈良時代から、仏教国家になった日本では仏像、仏具、梵鐘(ぼんしょう)と鋳物の需要が高まり、貴重な鋳物を生み出す鋳物師の地位が高まっていたのです。例えば、文武天皇の大宝三年(703年)には、朝廷お抱えの鋳物師(いもじ)に対し、国家の宝を造る尊い職業であるとして藤原姓を名乗る事が許されています。

足に鎖をつけられ、鉄の生産に従事させられた渡来人

こうして、次第に高い地位を得るようになった鋳物師は、座という職業ギルドを形成して、技術を独占し発展させると同時に「鋳物師由来書(いもじゆらいしょ)」というフィクションを生み出します。

西遊記巻物 書物

これは、鋳物師がいかに由緒正しく、神代の時から国に貢献してきた一族であるかを称揚(しょうよう)する内容で、ある時、宮廷に嫌な風が吹き近衛天皇(このえてんのう)が病気になった折、天下の僧侶を集めて加持(かじ)祈祷(きとう)をしても効果がなかったが、天命という鋳物師に鋳物燈篭(いものとうろう)を造らせると、嫌な風が吹かなくなり帝の病気も治った。近衛天皇はいたく天命に感謝し藤原姓を与えた。という霊験話を含んでいました。

鋳物師の看板を持って堂々と道を歩く職人

このようなフィクションが流布する程、鋳物師は、原料調達、居住の自由、営業の自由を認められ国家的な優遇を得ていたのです。かつて職工が半奴隷の形で国家に使役されていた昔を思えば、雲泥(うんでい)の地位の向上でした。

 

戦国大名も夢中!鋳物の芸術茶釜

お茶を楽しむ明智光秀

 

このような鋳物師が生み出した芸術品に茶釜(ちゃがま)があります。鎌倉・室町時代にかけて茶釜は飯を炊き、茶を沸かし、汁を煮るなど万能の調理器具であり、堺の僧、一路庵善海(いちろあんぜんかい)は一つの茶釜で万事の用が足りると豪語しました。もののけ姫でジゴ坊が取っ手とボツボツがついた釜で粥を煮るシーンがありましたよね?あれが茶釜です。

 

この茶釜、室町時代に流行してくる茶の湯において、湯を沸かす主役の地位を果たすようになり、商いで成功した商人や、権勢のある貴族や武士が数寄(すき)と呼ばれるマニア(へき)を発揮し、次々と茶釜の名物が誕生するようになります。

茶釜にほおずりする松永久秀

 

やがて、そんな数寄者の茶人(ちゃじん)羨望(せんぼう)する茶釜は、天明釜(てんめいがま)芦屋釜(あしやがま)京都釜(きょうとがま)の3種が頂点となり、そこから多くの支流が出現します。勘の良い人はお分かりでしょうが、戦国のボンバーマンこと、松永弾正(まつながだんじょう)が所有し信長がとても欲しがった名物、古天明平蜘蛛(こてんめいひらぐも)は、天明釜という茶釜の一つなのです。

織田信長

 

織田信長は専門の釜師(かまし)として、京都三条の釜座(かまざ)に所属する西村道仁(にしむらどうじん)を抱え、紹鴎(じょうおうごのみ)好みの釜を鋳造させ天下一の称号を与えていますし、後継者になった豊臣秀吉(とよとみひでよし)も辻与次郎、弥四郎、藤左衛門(とうざえもん)のような釜師を抱えていました。彼ら鋳物師(いもじ)は戦国大名も夢中にさせる鋳物を産み出したファンタジスタと言えるでしょう。

 

織田信長スペシャル

 

初のメイドインジャパン 日本刀

日本戦国時代の鎧(武士)

 

日本では奈良時代に入ると、蝦夷征伐(えみしとうばつ)に向かう防人の装備品として刀剣の需要が拡大し、五畿七道(ごきしちどう)に、それぞれ刀鍛冶が住み着いて、鍛冶の一派を為すようになります。平安時代に入り、大和朝廷の力が衰えると同時に荘園を実力で守る必要から自警団としての武士が誕生、院政期に入ると北面の武士としてアウトソーシング雇用され、刀剣や鎧の需要が急増、また、大寺院も自己の権益の保持の為に僧兵を蓄えて、強訴に及ぶなどし、白河法皇(しらかわほうおう)を嘆かせる専横を(ふる)いました。

比叡山の僧兵(僧侶)

 

その中で刀剣の技術は磨かれ、直刀だった刀は、そりとしのぎを持つ現在の日本刀へと変化していきました。また、平安から鎌倉に作刀が繁栄した理由には元祖刀剣男子であった後鳥羽法皇(ごとばほうおう)の存在も大きいものがありました。

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

後鳥羽上皇は院内に鍛冶場を設けて、全国の名のある刀匠を呼び寄せ、月番で刀を打たせるばかりでなく、自身でも鍛冶をするほどの刀剣マニアでした。上皇のお墨付きを得た刀鍛冶は、それまでの差別されていた立場から、社会的な地位の向上を果たすと共に、より作刀に励むようになり、日本刀は世界でも有数の鋭利な刀剣へ進化します。

鉄甲船

 

室町時代が始まり南北朝の騒乱が一段落すると、日本刀は史上初の輸出品、メイドインジャパンとなり、十万振以上の日本刀が明王朝や李氏朝鮮、そして琉球王国を介して、東南アジアにまで広く輸出されました。

 

刀鍛冶が生産した鉄砲

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

日本が日本刀を海外に輸出していた真っ最中の戦国時代中期の天文十二年(1543年)九州は種子島に明の大船が到着、その船に乗り込んでいた牟良叔舎(むしゅらしゅしゃ)喜利志多佗孟多(きりしただもうた)という外国人が所持していたのが、種子島銃(たねがしまじゅう)、すなわち鉄砲でした。

火縄銃(鉄砲)

種子島の領主、種子島時堯(たねがしまときたか)は賢明な人物で、二人の異人から鉄砲を二挺購入し、一挺を刀鍛冶の八板金兵衛(やいたきんべえ)篠河小四郎(しのかわこしろう)に託して、同じ銃を造れと命じたのです。金兵衛と小四郎は、説明書一つない鉄砲の製造に悪戦苦闘しますが、当時の日本に存在しなかったバネや螺子(ねじ))に至るまでを苦心しながら開発し、一年で模造品を完成させたと言われています。

幕末刀剣マニアの坂本龍馬

この時に鉄砲製造に役に立ったのが日本刀を製造する技術でした。鉄砲は、厚みのある熱した鉄を叩いて芯に巻き付けて製造しますが、熱した鉄を円筒形に生成するのは大変な技術が必要でした。しかし、日本刀を製造する上で、刀身を()らせたり、鉄を二重に巻きつけて強度を増すような技術を習得していた刀鍛冶は、火薬の爆発に耐えうる鉄砲を産み出したのです。

真田丸 武田信玄

種子島で誕生した日本製鉄砲は、そこから和歌山県の根来寺(ねごろじ)、近江の国友村、大阪の堺に伝播し戦国時代という時代風潮もあり、新兵器として量産を開始します。しかし、どんな大名でも鉄砲を欲しがったか?と言えばそうでもなく、非常に高価な鉄砲を数を(そろ)える事が出来、付随(ふずい)する、(なまり)硫黄(いおう)硝石(しょうせき)を安定して調達できる大名だけが、大量の鉄砲の集中運用という戦国時代を変える戦術の革新を成し遂げる事になりました。

火縄銃を気に入る織田信長

 

そう!楽市楽座を置いて商業の自由化を図り、各地の主要な港を抑えて物流を支配下におき、各地の街道を拡げ、江戸時代の五街道に先駆け各国の交通網を整備した尾張の戦国大名、織田信長こそが、鉄砲の性能を最も引き出し長篠(ながしの)の戦いで勝利したのは自然のなりゆきだったのです。

 

鉄の日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

鎌倉から室町時代、鉄の加工手段である鍛造と鋳造はそれぞれに大きな発展を迎えます。鋳造は仏教と結びつき、仏像、仏具、梵鐘等の鋳造を通じて、技術を高め茶の湯道具である茶釜を技術品の位置にまで高め、それは戦国大名も魅了しました。もう一方の鍛造は、奈良時代から蝦夷(えみし)討伐や、平安時代以後の武士や僧兵の誕生により、刀剣需要が拡大する事で、五畿七道に刀鍛冶の様々な流派が誕生します。後鳥羽院の肝煎(きもい)りもあり、平安末には日本刀が完成、戦乱が終息する室町時代には、日本初の輸出品として広く海外に輸出されます。

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

そして、その鍛造技術は、鉄砲が伝来するや刀鍛冶の技術を応用する事で、たちまちのうちにこれをコピー改良し、大量の鉄砲と鉛、硫黄、硝石を集める事が出来た戦国大名、織田信長による天下統一を大きく後押ししたのです。

 

参考文献:鉄から読む日本の歴史 講談社学術文庫

 

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鉄と日本の二千年史

 

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